平親宗(読み)たいらのちかむね

朝日日本歴史人物事典 「平親宗」の解説

平親宗

没年正治1.7.27(1199.8.20)
生年:天養1(1144)
平安末・鎌倉初期の公卿。時信と藤原家範の娘の子。時忠の弟,姉妹には平清盛妻時子,建春門院滋子がいる。弁官,蔵人頭を務めた後白河院の近臣で,治承3(1179)年平清盛クーデタで解官。源頼朝に密通した嫌疑を受けたり,平宗盛に叱責されている。寿永2(1183)年参議となるが,木曾義仲により解官。後白河法皇の寵愛深く,九条兼実は親宗について「小人近君,国家擾,誠哉此言」と述べ,当時の政情不安を嘆いた。文治1(1185)年源頼朝により解官。建久9(1198)年には子の和泉守宗信と興福寺の対立から,知行国和泉を失い大嘗会御禊装束司長官を罷免されたが,その後正二位中納言に進む。

(奥田環)

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「平親宗」の解説

平親宗 たいらの-ちかむね

1144-1199 平安後期-鎌倉時代の公卿(くぎょう),歌人
天養元年生まれ。平時忠,平時子,建春門院の弟。後白河上皇につかえ,寿永2年参議。一時解任されたが復官し,正二位,中納言にすすんだ。「千載和歌集」以下の勅撰(ちょくせん)集に8首みえる。正治(しょうじ)元年7月27日死去。56歳。家集に「中納言親宗集」,日記に「親宗卿記」。

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