デジタル大辞泉
「建春門院」の意味・読み・例文・類語
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けんしゅん‐もんいん‥モンヰン【建春門院】
- 後白河天皇の女御。高倉天皇の母。父は平時信。名は滋子(しげこ)。嘉応元年(一一六九)院号宣下を受ける。康治元~安元二年(一一四二‐七六)
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建春門院
没年:安元2.7.8(1176.8.14)
生年:康治1(1142)
平安末期の女院。後白河天皇の后。名は滋子。兵部権大輔贈左大臣平時信と民部卿藤原顕頼の娘祐子の子。異母兄姉に大納言時忠,平清盛の妻となった時子がいる。上西門院の女房となり小弁局と呼ばれていたときに後白河上皇の寵を受けて,応保1(1161)年皇子(高倉天皇)を生み,仁安2(1167)年女御宣旨。翌年皇子の即位に伴い皇太后宮。嘉応1(1169)年4月12日院号宣下。安元2(1176)年6月重病のため,院号,封戸,年官年爵を辞退し受戒するが,翌月没。『健寿御前日記』には,女主人滋子の美貌,華やかな生活などが描かれ,飾らない気さくな性格とともに知的な人柄と気配りの細やかさなども知られる。『建礼門院右京大夫集』にもその華やかさが賛美されている。後白河上皇に終生愛されて,政界にも隠然たる力を持った。平氏一族に繁栄をもたらし,兄時忠も権力をふるった。姉時子が清盛の妻であることから,清盛と後白河上皇との関係を緊密にし,時子の子を中心とする平氏一門の権力拡大の一翼を担い,後白河上皇と平家との最も親密な時期を招き,短くも安定した平安末期の文化が開花した。建春門院の死は,後白河法皇と清盛との緩衝役の喪失を意味した。その後,後白河法皇は拡大しすぎた平氏勢力の削減を狙い,清盛との関係は次第に悪化する。
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
建春門院 けんしゅんもんいん
1142-1176 平安時代後期,後白河天皇の女御(にょうご)。
康治(こうじ)元年生まれ。平時信の娘。平時子の異母妹。永暦(えいりゃく)2年憲仁(のりひと)親王を生む。仁安3年親王が高倉天皇として即位すると皇太后となり,翌年院号をうける。安元2年7月8日死去。35歳。名は滋子(しげこ)。通称は小弁局(こべんのつぼね)。
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世界大百科事典(旧版)内の建春門院の言及
【平清盛】より
…安徳天皇の即位(1180)により,清盛は天皇の外祖父の地位を得ることとなる。また高倉天皇自体,清盛の妻平時子の妹滋子(じし)(建春門院)が後白河院のもとに入って1161年(応保1)に生んだ天皇であった。この時子・滋子姉妹は桓武平氏高棟(たかむね)王系の平時信の子で,堂上公家平家の出であり,また桓武平氏の本宗の流れをくむ家柄である。…
【以仁王】より
…八条院猶子。若くして英才の誉れが高く,皇位継承の有力候補と目されたが,異母弟憲仁(高倉天皇)の母建春門院平滋子の妨害により,親王宣下も受けられぬ不遇をかこった。79年(治承3)平氏のクーデタにより父法皇が幽閉され,王も多年知行してきた常興寺(領)を没収されるに及び,翌年4月[源頼政]を語らい,平氏討伐の令旨(りようじ)を発した。…
※「建春門院」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」