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第7番目の勅撰(ちょくせん)和歌集。藤原俊成(しゅんぜい)撰。平氏都落ち直前の1183年(寿永2)2月に後白河(ごしらかわ)院の下命があり、源平戦乱終息後の1187年(文治3)に形式的奏覧、翌年俊成75歳のおりに完成した。前勅撰集の『詞花(しか)集』に対しては歌壇に強い批判があり、その気運のなかから『拾遺古今』『後葉集』などの反『詞花集』的私撰集が生まれた。俊成も50歳代の高倉(たかくら)天皇期のころから私撰集(『三五代集(さんごだいしゅう)』、散逸)を撰じており、それが母胎となって勅撰集に発展したと推定されている。部立(ぶだて)は『金葉集』『詞花集』と続いた10巻仕立てから、『後拾遺集』以前の20巻に復し、釈教、神祇(じんぎ)の新設などにくふうを示している。収載歌は、一条(いちじょう)天皇時代以降の385人の歌人の1288首で、当代歌人をかなり重視し、女流、僧侶(そうりょ)歌人の比率も小さくない。なお「読人しらず」には『平家物語』でよく知られている平忠度(ただのり)のほか、経盛(つねもり)・経正(つねまさ)ら勅勘の平家歌人の歌が含まれている。『詞花集』がほとんど採歌しなかった『久安(きゅうあん)百首』(崇徳(すとく)院主催)から126首もとり、『千載集』四季部の風格形成に利用しているのは、本百首のころの叙情的歌風を『千載集』の基調に据えようとする撰者俊成の意図として理解されよう。保元(ほうげん)の乱から源平争乱期にかけての変動期は、紀貫之(きのつらゆき)以来の知巧主義的な貴族和歌の主潮に安住する余地を狭め、現実の境遇を詠嘆する述懐性の濃い叙情歌を増大させた。『千載集』の叙情性回復の指向も当然その反映だが、その方向は古典摂取の詠作手法の開拓に伴って新古今的余情妖艶(ようえん)美に連なっていく。
[松野陽一]
『久保田淳・松野陽一校注『千載和歌集』(1969・笠間書院)』▽『『谷山茂著作集 3 千載和歌集とその周辺』(1983・角川書店)』
平安時代の勅撰和歌集。八代集の第7にあたる。20巻。撰者は釈阿(しやくあ)(藤原俊成)。1183年(寿永2)後白河院の院宣によって撰集下命,88年(文治4)に成る。俊成編の私撰集《三五代集》(今は伝わらない)を母胎として編纂された。入集歌は〈後拾遺集に撰び遺されたる歌,かみ正暦のころほひより,しも文治の今にいたるまで〉(序)を対象とし,《万葉集》《古今集》《後撰集》の歌人の歌は含まない。また本集に先立つ《金葉集》《詞花集》がともに10巻であったのに対して,《古今集》以来の20巻構成をとる。歌風は撰者俊成の意向を反映して,《古今集》の風体を重んじつつ技巧的な歌よりもわかりやすい抒情歌を主流とし,他方,〈本歌取り〉などの手法によって〈幽玄〉と呼ばれる境地を開拓して,《新古今集》への道を用意した。主な歌人には源俊頼,撰者俊成,藤原基俊,崇徳院,俊恵,円位(西行),待賢門院堀河,式子内親王など,当代の歌人が多く名をつらね,当代以外では和泉式部,紫式部,大江匡房(まさふさ),藤原公任(きんとう)の入集が目立つ。なお,《新古今集》の最多入集歌人西行は,本集ではすべて〈円位法師〉の名で記載されている。《千載集》とも略すが,千年ののちまでもこの集が伝わることを願って付けられたものである。
執筆者:今西 祐一郎
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第7番目の勅撰集。20巻。歌数約1290首。藤原俊成撰。1183年(寿永2)後白河法皇の下命。序では87年(文治3)9月奏覧だが,実際は翌年4月。若干の補訂をへて同年8月頃までに完成。俊成の私撰集をもとに編纂された。仮名序がある。おもな歌人は,源俊頼・俊成・藤原基俊・崇徳(すとく)上皇・俊恵・和泉式部など。「古今集」をはじめとする古典への回帰を志向しつつ,新しい抒情詩の確立をめざし,「新古今集」の成立に影響を与えた。撰者自筆本断簡の日野切(ひのぎれ)が伝わる。「新日本古典文学大系」所収。
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