鎌倉幕府第2代将軍。源頼朝(よりとも)の長子。母は北条政子(ほうじょうまさこ)。幼名万寿(まんじゅ)、十万(じゅうまん)。1199年(正治1)父頼朝の死後家督を継ぎ、1202年(建仁2)将軍に就任した。頼家は、妻の父である有力御家人(ごけにん)比企能員(ひきよしかず)を登用して、頼朝死後の幕府の体制を立て直そうとしたが、比企氏の勢力が強大となることを恐れた北条氏は、頼家の母政子と結んで、北条時政(ときまさ)、大江広元(おおえのひろもと)、梶原景時(かじわらかげとき)、和田義盛(わだよしもり)ら13人の有力御家人の合議制によって政治を進めることにし、頼家の独裁を抑えようとした。その後、有力御家人間の主導権をめぐる権力闘争が激化し、北条氏が着々と勢力を伸張するなかで、頼家の将軍としての実権はしだいに有名無実化していった。そこで頼家は比企氏と結んで権力の回復を意図したが、かえって有力御家人の離反を招く結果となった。1203年8月、北条氏は頼家が病気となったのを口実として権限を奪い、総地頭職(そうじとうしき)・総守護職を頼家の子一幡(いちまん)と弟の千幡(せんまん)(実朝(さねとも))に分割支配させようとした。頼家は比企氏と図って北条氏を排除しようとしたが、逆に比企氏は誅伐(ちゅうばつ)され、この計画に加わっていたことを理由に頼家は将軍職を奪われ、伊豆国修禅寺(しゅぜんじ)に幽閉され、翌1204年(元久1)7月18日、北条氏による刺客によって殺された。墓は静岡県伊豆市修禅寺門前にある。
[瀬野精一郎]
鎌倉幕府第2代将軍。源頼朝の長子。母は北条政子。1199年(正治1)父の死後17歳で家督を継ぎ,1202年(建仁2)征夷大将軍。北条氏のはからいで有力御家人13人による合議制がしかれたため独裁することができず,また03年には66ヵ国地頭職および惣守護職を子の一幡(いちまん)と弟の千幡(後の実朝)へ分譲決定を余儀なくされた。同年9月舅比企能員(ひきよしかず)と謀って北条氏討伐を企てたが失敗し,比企氏は滅び頼家は伊豆修禅寺に幽閉され,翌年7月18日同寺で刺殺された。
頼家は幼少より才気煥発で独断専行が多く,そのため北条氏や他の御家人の信任を得られなかったといわれる。頼家の周りには比企一族のほか梶原景時をはじめ頼家お気に入りの近習がおり,使者,手兵,遊び仲間としての役目を果たしていた。景時が追放,討滅されたのも,彼が頼家に最も近い側近で,後見でもあったためといわれる。景時没後も頼家は近習だけを重んじ,彼らを実名で呼び捨てて親密さを示し,一時は近習を通さなければ諸人の申し出は受け付けないと宣言したほどである。このような頼家に対し,北条氏は弟実朝の擁立を図り,それを果たした。幽閉中,頼家は近習の参入を懇願したがついに許されなかった。一説では近習の一人中野能成が北条氏のスパイであったともいう。
修禅寺幽閉後の頼家を題材とした戯曲に岡本綺堂作《修禅寺物語》がある。
執筆者:飯田 悠紀子
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(杉橋隆夫)
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1182.8.12~1204.7.18
鎌倉幕府2代将軍(在職1202.7.23~03.9.7)。父は初代将軍頼朝。母は北条政子。幼名は万寿。1199年(正治元)頼朝の死後家督を継ぎ,1202年(建仁2)将軍となる。訴訟を扱う権限は有力御家人13人の合議に移され,実権をなかば失った将軍であった。側近の梶原景時は,1199年北条氏ほかの御家人集団により追放された。比企能員(ひきよしかず)の女(若狭局)との間に男子一幡(いちまん)が生まれ,比企氏が外戚となったため,これを警戒した北条時政により1203年比企氏と一幡は攻め滅ぼされた。頼家自身も伊豆国修禅寺に幽閉され,翌年死去。北条氏による暗殺という。
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…この時期の大規模な巻狩挙行は,そうした武将を従える源頼朝が武家政権を確立し,みずからがその長であることを内外に示す大デモンストレーションとしての意味をもった。このとき頼朝の嫡男源頼家(当時12歳)が初めて鹿を射とめ,頼朝は大いに喜んで直ちに山神に感謝する矢口祭(やのくちまつり)を行い,祝宴を催したという。頼朝にとってそれは頼家が武家政権の後継者にふさわしい資格を有することを御家人に誇示する祝宴でもあった。…
…鎌倉幕府の初代執権。時方の子。母は伊豆掾伴為房の娘。伊豆国北条(現,静岡県韮山町)を本拠とする在庁官人で,北条四郎と称した。源頼朝が伊豆に流されていたとき,娘の北条政子が頼朝の妻となるのを許した。1180年(治承4)頼朝が平氏打倒の兵を挙げるとこれを助け,まず伊豆の目代山木兼隆(やまきかねたか)を討った。しかし相模の石橋山の戦には敗れて安房に逃れた。ついで頼朝の命を受けて甲斐に赴き,同国の武田信義らを味方につけ,甲斐,信濃の源氏を伴って頼朝の本隊に合流し,駿河の富士川の戦で平維盛の東征軍を敗走させた。…
※「源頼家」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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