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平時忠 たいらのときただ

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

平時忠
たいらのときただ

[生]大治5(1130)
[没]文治5(1189).2.24. 能登
平安時代末期の廷臣。時信の子。清盛の妻時子および後白河院妃建春門院滋子の兄。応保1 (1161) 年妹滋子が生んだ憲仁親王 (のちの高倉天皇) を東宮に立てようとはかったかどで解官 (右衛門権佐,右少弁,正五位下) され,出雲に流された。永万1 (65) 年許され,翌仁安1 (66) 年復位,次第に昇進して同2年参議正四位下,嘉応1 (69) 年権中納言に進み,清盛の側近として,平氏政権を支える重要な地位を占めた。同年院と平氏の微妙な対立から再度流罪となったが,ただちに召し返され,寿永2 (83) 年権大納言。平氏滅亡後源義経に捕えられ,娘をすすめて身の安全を願ったが,頼朝のために能登に流された。

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百科事典マイペディアの解説

平時忠【たいらのときただ】

平安末期の公卿(くぎょう)。時信の子。権大納言(ごんのだいなごん)。才知に富み,妹滋子(じし)が後白河天皇女御(にょうご),姉時子(ときこ)が清盛の妻となった関係で,朝廷に勢力あり,平関白(へいかんぱく)と称された。
→関連項目時国家

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

平時忠 たいらの-ときただ

1127-1189 平安時代後期の公卿(くぎょう)。
大治(だいじ)2年生まれ。平時信の子。姉時子は平清盛の正妻,妹建春門院は後白河天皇の女御(にょうご)。正二位,権(ごんの)大納言にのぼって権勢をふるい平関白と称された。壇ノ浦の戦いで捕らえられたが,源義経を娘婿として保身をはかる。のち源頼朝により能登(のと)(石川県)に流された。文治(ぶんじ)5年2月24日死去。63歳。

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朝日日本歴史人物事典の解説

平時忠

没年:文治5.2.24(1189.3.12)
生年:大治2(1127)
平安末期の公卿。桓武平氏高見王流の出身。兵部 権大輔時信,藤原家範の娘(あるいは孫)の子。同母姉時子が平清盛の正室となったため,武門平氏と密接な関係を持つ。蔵人などを経て久安5(1149)年叙爵,正五位下右少弁に至る。応保1(1161)年に,後白河上皇の寵愛を受けていた妹滋子が生んだ皇子(のちの高倉天皇)の立太子を図り解官,翌年には二条天皇を呪詛したとして出雲に配流永万1(1165)年,二条天皇の死後,帰京を許されてから官位は順調に上昇。蔵人頭を経て仁安2(1167)には参議,翌年中納言・検非違使別当となった。嘉応1(1169)年,延暦寺強訴問題に関連して一旦解官されるが,翌年本官に復した。承安2(1172)年,平徳子の中宮権大夫に就任。2年後,4人を超越し従二位に昇進した。治承4(1180)年に高倉の院別当に就任,寿永2(1183)年,権大納言に至るが,平氏都落ちに同道して解官。壇の浦の戦で捕虜となるが,源義経を婿に迎えて配流回避を画策。しかし源頼朝の圧迫によって能登に配流され同地で死去した。時忠は,「此一門(平氏一門)にあらざらむ人は皆人非人なるべし」と揚言したり,「平関白」とも称されたように,清盛の権威を背景に高慢な言動が目立ったが,3度検非違使別当に就任し,検非違使に平氏の影響力を浸透させたり,公卿議定に出仕して武門平氏の代弁者の役割も果たすなど,公卿の立場から平氏政権に大きく貢献した。また公家ながら「心猛ク理ツヨキ」人と評されている。

(元木泰雄)

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世界大百科事典 第2版の解説

たいらのときただ【平時忠】

1128‐89(大治3‐文治5)
平安末期の公卿。一説に生年1130年。時信の子。正二位権大納言。才知に富むきれ者であるとともに,姉時子が平清盛の妻,同滋子が後白河上皇の女御(建春門院)となったため昇進して正二位権大納言にいたり,清盛の側近として権勢をふるった。壇ノ浦の戦で捕らえられ,源義経にその女をすすめて身の保全を図ったが,頼朝の厳命で能登に流され,同地で没した。【田中 文英】

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大辞林 第三版の解説

たいらのときただ【平時忠】

1128?~1189?) 平安末期の公卿。時信の子。正二位権大納言。後白河天皇の女御(建春門院)滋子、清盛の妻時子はともにその妹。権勢をふるい平関白と称された。「平氏にあらざれば人にあらず」という言葉を残したことでも知られる。平家滅亡後、源義経に近づいて保身を図ったが、能登に流されて没した。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

平時忠
たいらのときただ
(1128―1189)

平安後期の公家(くげ)。時信(ときのぶ)の子。平清盛(きよもり)の妻時子と後白河(ごしらかわ)院妃建春門院(けんしゅんもんいん)滋子(しげこ)の兄にあたる。二条(にじょう)天皇にいまだ皇子がなかったため、1161年(応保1)滋子が生んだ皇子(憲仁(のりひと))を東宮(とうぐう)にたてようと企てて解官(げかん)され、出雲(いずも)国(島根県)に流された。4年後憲仁親王が東宮となり、次期天皇の外戚(がいせき)となった時忠は大いに勢力を振るい、叙位、除目(じもく)はもっぱら彼の手中にあったという。平氏政権下で重要な地位を占め、「平氏に非(あら)ざるは皆人非人」と平氏の世を謳歌(おうか)した。院と平氏の権力抗争の続くなかで、69年(嘉応1)再度出雲国に流罪となった。その後83年(寿永2)正二位、権大納言(ごんのだいなごん)となる。平家滅亡後源氏に捕らえられ、能登(のと)国(石川県)に流され、文治(ぶんじ)5年2月24日同地で没した。[田辺久子]

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世界大百科事典内の平時忠の言及

【時国家】より

…ともに江戸時代の民家建築を伝え,伝存する什器・古文書・書籍等も多く,奥能登の歴史と文化を現在に伝える数少ない旧家としてその名が知られる。壇ノ浦の戦に敗れ,能登へ配流された大納言平時忠の子孫という伝承を持つ両家は,元来一つの家で,平安末期に成立した下町野荘の時国名(みよう)名主の流れを汲む家とみなされる。両家に分かれるのは江戸時代初頭のことで,その背後には土方・前田の両大名間で時国家の争奪をめぐる厳しい対立があった。…

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