精選版 日本国語大辞典 「平時忠」の意味・読み・例文・類語
たいら‐の‐ときただ【平時忠】
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(元木泰雄)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
平安後期の公家(くげ)。時信(ときのぶ)の子。平清盛(きよもり)の妻時子と後白河(ごしらかわ)院妃建春門院(けんしゅんもんいん)滋子(しげこ)の兄にあたる。二条(にじょう)天皇にいまだ皇子がなかったため、1161年(応保1)滋子が生んだ皇子(憲仁(のりひと))を東宮(とうぐう)にたてようと企てて解官(げかん)され、出雲(いずも)国(島根県)に流された。4年後憲仁親王が東宮となり、次期天皇の外戚(がいせき)となった時忠は大いに勢力を振るい、叙位、除目(じもく)はもっぱら彼の手中にあったという。平氏政権下で重要な地位を占め、「平氏に非(あら)ざるは皆人非人」と平氏の世を謳歌(おうか)した。院と平氏の権力抗争の続くなかで、69年(嘉応1)再度出雲国に流罪となった。その後83年(寿永2)正二位、権大納言(ごんのだいなごん)となる。平家滅亡後源氏に捕らえられ、能登(のと)国(石川県)に流され、文治(ぶんじ)5年2月24日同地で没した。
[田辺久子]
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平安末期の公卿。一説に生年1130年。時信の子。正二位権大納言。才知に富むきれ者であるとともに,姉時子が平清盛の妻,同滋子が後白河上皇の女御(建春門院)となったため昇進して正二位権大納言にいたり,清盛の側近として権勢をふるった。壇ノ浦の戦で捕らえられ,源義経にその女をすすめて身の保全を図ったが,頼朝の厳命で能登に流され,同地で没した。
執筆者:田中 文英
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1127~89.2.24
平安末期の公卿。父は時信。兄弟に親宗(ちかむね),平清盛の室時子,建春門院滋子(しげこ)らがいる。子に時実(ときざね),女婿に源義経がいる。1167年(仁安2)参議となり,正二位権大納言まで進む。清盛に協力し,61年(応保元)憲仁(のりひと)親王(高倉天皇)の立太子をはかったかどで,また69年(嘉応元)には藤原成親(なりちか)に連坐して2度出雲へ配流。のち壇ノ浦の戦で捕らえられ,配所能登で没した。
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…ともに江戸時代の民家建築を伝え,伝存する什器・古文書・書籍等も多く,奥能登の歴史と文化を現在に伝える数少ない旧家としてその名が知られる。壇ノ浦の戦に敗れ,能登へ配流された大納言平時忠の子孫という伝承を持つ両家は,元来一つの家で,平安末期に成立した下町野荘の時国名(みよう)名主の流れを汲む家とみなされる。両家に分かれるのは江戸時代初頭のことで,その背後には土方・前田の両大名間で時国家の争奪をめぐる厳しい対立があった。…
※「平時忠」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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