平安末、鎌倉初期の歌人。正式には「としなり」と読む。権中納言(ごんちゅうなごん)俊忠(としただ)の三男。母は伊予守敦家(あついえ)の女(むすめ)。10歳で父と死別。葉室顕頼(はむろあきより)の養子となり、53歳で本流に復するまでが顕広(あきひろ)、63歳で正(しょう)三位非参議皇太后宮大夫(だいぶ)で出家するまでが俊成、後の30年が釈阿(しゃくあ)(別号阿覚(あかく)、澄鑒(ちょうかん))を称した法体の歌壇の重鎮の期間である。通称五条三位。養父が「夜の関白」と称された実力者であり、妻の美福門院(びふくもんいん)加賀の縁もあってか、青年期にあたる鳥羽(とば)院政期には、美作守(みまさかのかみ)、加賀守、遠江(とおとうみ)守、三河守、丹後(たんご)守などを歴任したが、中年以降は官位停滞、不遇感のうちに出家するに至り、以後、子孫の官途に家門の栄光の回復を託することになる。
詠作活動は18歳ごろから本格化し、両度の『為忠家百首』など、岳父丹後(たんご)守為忠家歌壇での習作期を経て、保延(ほうえん)6、7年(1140、1141)の『述懐百首』を縁として30代には崇徳(すとく)院歌壇で活躍、『久安(きゅうあん)百首』出詠を中心に古典摂取の詠作手法を確立、同百首の部類を崇徳院から命ぜられるなど、歌壇的地位を確保した。本流に復した50代以降は平氏全盛期にあたるが、「住吉社歌合(すみよしやしろうたあわせ)」「建春門院北面歌合」「広田社歌合」「別雷(わけいかずち)社歌合」など全歌壇的規模の歌合判者を務める一方、私撰(しせん)集『三五代集(さんごだいしゅう)』(『千載(せんざい)集』の前身と推定される)の編纂(へんさん)を進めて、六条藤家(ろくじょうとうけ)の清輔(きよすけ)に拮抗(きっこう)する歌壇指導者となった。そして出家後、摂家の九条兼実(かねざね)家歌壇に迎えられ、1188年(文治4)75歳の『千載集』撰進で名実ともに第一人者となるのである。しかしながら、彼が歌学者としてもっとも充実した仕事をしたのは晩年の10年で、文治(ぶんじ)・建久(けんきゅう)期(1185~1199)の後京極良経(ごきょうごくよしつね)家、正治(しょうじ)・建仁(けんにん)期(1199~1204)の後鳥羽(ごとば)院歌壇を舞台に『六百番歌合』『慈鎮和尚自歌合(じちんかしょうじかあわせ)』その他多くの歌合加判、『古来風躰抄(こらいふうていしょう)』執筆などを通じて、保守派の歌道師範家であった六条家の歌学を圧倒するとともに、後進の指導にあたり、新古今歌風形成に大きな役割を果たした。76歳の『五社百首』以降『仁和寺(にんなじ)五十首』『正治初度百首』『千五百番歌合百首』、91歳秋の『祇園社(ぎおんしゃ)百首』と最後まで創作意欲も衰えず活躍し、後鳥羽院から九十(ここのそじ)賀宴を賜り、元久(げんきゅう)元年11月30日、幸運のうちに91歳の生涯を閉じた。家集に『長秋詠藻(ちょうしゅうえいそう)』『俊成家集』があり、13種の百首歌を遺している。また『古来風躰抄』『古今問答』『万葉集時代考』『正治奏状』『三十六人歌合』などの歌学書、秀歌撰があり、約40種の歌合判詞を書き、勅撰集『千載集』を編んだ、足跡の大きな歌人であった。『詞花(しか)集』以下の勅撰集に418首が入集(にっしゅう)するなど、当代、後代の評価も高い。
平安朝の和歌史は『古今集』以来、漢詩に拮抗する公的文芸としての可能性が追究され、題詠歌としての題の本意(歌題に内在する美的本性)の開拓が作意の主流となった。しかし平安末の動乱期に至って、それまでの単純な主知的手法に行き詰まりが生じ、主情性の回復が求められた際、古典摂取の詠作手法を開拓して問題の克服にあたったのが俊成であった。「やさしく艶(えん)に、心も深く、あはれなるところもありき」(後鳥羽院御口伝)と評された彼は単なる叙情詩人だったのではなく、歌の韻律性と映像効果から醸成される微妙な余情美を知的手法によって構成させるという歌論の指導者でもあった。定家、家隆、良経らの新古今歌風を開花させたその理論は、近時京都冷泉(れいぜい)家秘庫から出現した俊成自筆『古来風躰抄』に息づかいのままにみることができる。
[松野陽一]
又や見む交野(かたの)の御野(みの)の桜狩(さくらがり)花の雪散る春の曙(あけぼの)
『松野陽一著『藤原俊成の研究』(1973・笠間書院)』▽『塚本邦雄著『日本詩人選 23 藤原俊成・藤原良経』(1975・筑摩書房)』▽『『藤原俊成 人と作品』(『谷山茂著作集 2』所収・1982・角川書店)』
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平安末期の歌人。〈しゅんぜい〉ともよばれる。参議俊忠の子。幼年期葉室顕頼の養子として顕広と称したが,54歳から父の御子左家(みこひだりけ)に帰り,俊成と改名。法名釈阿。最終官は正3位皇太后宮大夫。藤原基俊に和歌を学び,《為忠家両度百首》(1132-36ころ),《述懐百首》(1140-41)などの力詠で崇徳院の殊遇を受け,《久安百首》の部類も下命された。そのころから六条派主導の観念的な古典追随,万葉好尚の風潮と対立,《古今集》以来の優美な抒情に和歌の芸術性を認め,さらに時代の感性をとらえた幽玄・優艶な余情美を表現して,新風の推進者となった。平氏政権全盛期ごろには彼の育成した御子左派新進歌人も登場,諸家歌合の判者にも招かれ,歌壇の重鎮と目されたが,ことに63歳で出家した翌年,藤原清輔の後任として関白九条兼実の和歌師範に迎えられ,六条家の権威と劇的交替をとげた。1188年(文治4)には後白河院から下命されていた《千載和歌集》の編纂を完成,さらに後鳥羽院の信頼と支持を得て,子息定家らとともに新風を深化,華麗な新古今様式の開花を導き,みずからも《後鳥羽初度百首》《千五百番歌合》など後鳥羽院歌壇の主要行事に出詠,判者をつとめて芸術的な歌合批評に円熟ぶりを発揮した。1203年(建仁3)には後鳥羽院から九十の賀を賜う光栄に浴し,《祇園社奉納百首》詠作を最後に功成り名遂げた生涯を終えた。
この間,1178年(治承2)家集《長秋詠藻》を自撰して守覚法親王に献呈,97年(建久8)には歌論書《古来風体抄(こらいふうていしよう)》を献進(1201年改訂),晩年の和歌観を吐露した。俊成はここで天台止観によそえて和歌の変遷を内観し(最初の和歌史観),浮言綺語(ふげんきぎよ)の和歌が仏法悟得の機縁たりうるという新価値観(狂言綺語観)を提示し,さらに《古今集》を歌の本体と仰ぐ伝統観(古典の定立)を述べる。俊成の新風は広義の幽玄体といわれ,幻想的な詩趣と優美な声調の調和の中に,陰翳(いんえい)のふかい耽美的情念を流露させ,抒情の世界に余情の新領域をひらいた。自讃歌〈夕されば野辺の秋風身にしみて鶉啼くなり深草の里〉(《千載集》巻四)は著名。俊成の筆蹟は比較的多く伝存し,若年期の顕広切,御家切(おいえぎれ),晩年の簡勁な了佐切,昭和切の4種《古今集》,撰者自筆本の日野切《千載集》,判者自筆本《広田社歌合》,住吉切,守覚法親王五十首切などが著名で,本文資料としても価値が高い。
執筆者:近藤 潤一
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(渡部泰明)
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1114~1204.11.30
「しゅんぜい」とも。平安末~鎌倉前期の歌人。御子左(みこひだり)家藤原俊忠の子。母は藤原敦家(あついえ)の女。子に定家(さだいえ)ら。父の死後,葉室顕頼の養子となり,53歳まで顕広(あきひろ)を名のる。正三位に昇り,皇太后宮大夫となる。63歳で出家,法名釈阿(しゃくあ)。源俊頼や藤原基俊に学び,やがて歌壇の指導者の地位についた。業績は「千載集」の撰集,歌学書「古来風体抄(こらいふうていしょう)」「俊成卿和字奏状」「万葉集時代考」「古今問答」,さらに「六百番歌合(うたあわせ)」ほか40ほどの歌合の判詞の執筆など多彩。和歌の道で対抗する六条(藤)家を圧倒,定家ら新古今時代の歌人たちを育てた。1203年(建仁3)には後鳥羽上皇から九十の賀を賜る。「詞花集」以下の勅撰集に約420首入集。家集「長秋詠藻(ちょうしゅうえいそう)」「俊成家集」。
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…平安末期の歌人。〈しゅんぜい〉ともよばれる。参議俊忠の子。幼年期葉室顕頼の養子として顕広と称したが,54歳から父の御子左家(みこひだりけ)に帰り,俊成と改名。法名釈阿。最終官は正3位皇太后宮大夫。藤原基俊に和歌を学び,《為忠家両度百首》(1132‐36ころ),《述懐百首》(1140‐41)などの力詠で崇徳院の殊遇を受け,《久安百首》の部類も下命された。そのころから六条派主導の観念的な古典追随,万葉好尚の風潮と対立,《古今集》以来の優美な抒情に和歌の芸術性を認め,さらに時代の感性をとらえた幽玄・優艶な余情美を表現して,新風の推進者となった。…
…鎌倉前期の女流歌人。俊成(しゆんぜい)卿女ともよばれる。尾張守藤原盛頼女で,母は俊成女の八条院三条。正しくは俊成の孫であるが,養女として育てられる。源通具に嫁したが,のち後鳥羽院に出仕して別居。〈風通ふ寝覚めの袖の花の香にかをる枕の春の夜の夢〉(《新古今集》)など,艶麗な詠風に特色を示し,宮内卿らと並び称された。家集《俊成卿女集》,歌論《越部禅尼消息》など。勅撰集入集117首。【上条 彰次】…
…歌学用語としても,平安時代すでに歌合判詞や歌論の類に見え,しだいに和歌の美的範疇を表す評語となる。藤原俊成の意識した艶の美には,《源氏物語》の〈もののあはれ〉を受け継ぎ,さらに余情美を求めようとする傾斜が認められる。中世以降には艶を内面化しようとする傾向が強まり,心敬の連歌論《ささめごと》などに見える〈心の艶〉〈冷艶〉の美は,その極致とされる。…
…〈心〉の重視を言いつつ,〈詞をかざり詠むべきなり〉とも言って,〈言葉〉の尊重,言語世界の自立をも示唆している点が斬新であった。
【中世】
中世の最初を飾るのは,藤原俊成《古来風体抄(こらいふうていしよう)》である。式子内親王の依頼によって執筆したもので,成立は1197年(建久8)である。…
…《源氏物語》以降の物語が《栄華物語》のような歴史物語をも含めて,すべてその強大な影響力を受けていることは今さらいうまでもなく,特に鎌倉時代の擬古物語では,用語の末々まで模していることが多い。歌壇もまたその影響は免れず,平安末期には〈源氏に寄する恋〉という歌題ができて多くの歌が詠まれており,藤原俊成の〈源氏見ざる歌よみは遺恨の事なり〉とか藤原良経の〈紫式部が源氏,白氏が文集,身に添へぬ事はなし〉などの賛辞が続いた。こうした人々の中から〈物語沙汰する人〉,つまり研究者が現れた。…
…〈こらいふうたいしょう〉とも読む。藤原俊成の歌論として唯一のまとまったもの。2巻。…
…20巻。撰者は釈阿(しやくあ)(藤原俊成)。1183年(寿永2)後白河院の院宣によって撰集下命,88年(文治4)に成る。…
…自然および社会の秩序に絶対的な信頼をよせる明快な世界観および明晰な言語観は,その切れ味のよい理知性とともに以後の短歌の規範とされたのであった。その後,《後撰和歌集》《拾遺和歌集》以下次々と勅撰集が出され,曾禰好忠(そねのよしただ),源経信,源俊頼らが用語,素材などにおいて革新的な立場をとって保守派と対立することで歌壇は活気づいたが,やがて藤原俊成が登場して新旧両派の歌風を統一,中世短歌の土台を築くのであった。なお,中古の時代に入って,上句(5・7・5)と下句(7・7)とが分離する傾向が見えはじめ,いわゆる七五調が優勢になってくる。…
…藤原俊成の家集。1178年(治承2)3月に自撰し,仁和寺守覚法親王に奉った。…
…【野田 只夫】
[歌枕]
深草は中央南北に大和街道(奈良街道)が通じているので詠作が多く,皇室や権門の葬場でもあったので哀傷の作も多い。《千載集》巻四の〈夕されば野辺の秋風身にしみて鶉鳴くなり深草の里〉は藤原俊成が自作の最高の作と人々に語った(《無名抄》)歌として著名である。深草少将(伏見区西桝屋町の欣浄寺(ごんじようじ)がその宅址と伝える)が山科小野の随心院にあった小野小町の宅へ百夜(ももよ)通った伝説があり,謡曲《通小町(かよいこまち)》《卒都婆小町》《墨染桜》などに劇化されている。…
…蕉風俳諧の美的理念の一。作者の心が対象の微妙な生命の急所にしみとおってゆき,そこに風雅の伝統の細き一筋を感得すること,およびその感得したものを句ににないこむ気味合いをいう。去来は〈細みは便りなき句にあらず。……細みは句意にあり〉(《去来抄》)といい,芭蕉が路通の〈鳥共も寝入てゐるか余吾(よご)の海〉という句を〈此句細みあり〉と評したと伝えている。早く中世においては俊成などが〈心深し〉〈心細し〉という評語をしきりに用い,作者の思い入る心の深さ,細さを称美しているが,連歌でも心敬がこれを承けて〈秀逸と侍ればとて,あながちに別の事にあらず。…
…しかし,このころはまだ修辞的な技巧としては意識されていない。意識的な技巧として推進したのは藤原俊成で,《新古今和歌集》は本歌取りの全盛時代に成立している。それまでは〈盗古歌〉と考えて,本歌取りを避ける主張もあった(藤原清輔《奥儀抄》)。…
…成立は奥州から帰った1187年(文治3)ころか。西行が自己の秀歌72首を選び,左方を山家客人,右方を野径亭主として36番の歌合に構成し,藤原俊成に判を依頼したもの。同じく西行の自歌合《宮河歌合》(定家判)と一体のものであるが,後世自歌合の最初と言われている。…
…日本では,仏典などの用例以外,《古今集》真名序に〈興入幽玄〉とあるのが文学的用例としての初出。以後,〈此体,詞雖凡流,義入幽玄〉(《忠岑十体》高情体),〈義以通幽玄之境〉(《中宮亮顕輔歌合》基俊判),〈余情幽玄体〉(《作文大体》)など,しだいに余情美への傾斜を示す用例を経て,中世初頭,藤原俊成が歌合判詞類に14例用いるにおよび,重要な歌学用語となった。その内容については諸説あるが,心細く寂しい美や優艶美さらに長高美などの複合した,縹渺(ひようびよう)とした余情美の性質を示すだけでなく,対象に深く浸透する表現態度をも内包する。…
…《後京極殿百首歌合》《左大将家百首歌合》ともいう。作者は左が,藤原良経・同季経・同兼守・同有家・同定家・顕昭,右が,藤原家房・同経家・同隆信・同家隆・慈円・寂蓮の計12人,判者は藤原俊成。各人が春15首・夏10首・秋15首・冬10首・恋50首の百題百首を詠進し,それを600番に結番した百首歌形式の歌合。…
※「藤原俊成」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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