平時子(読み)タイラノトキコ

精選版 日本国語大辞典 「平時子」の意味・読み・例文・類語

たいら‐の‐ときこ【平時子】

  1. 平清盛の妻。平時信長女。宗盛・知盛・重衡・徳子の母。三后に準ぜられた。清盛死後剃髪して二位尼と称された。壇ノ浦で安徳天皇を抱いて海中投身大治元~元暦二年(一一二六‐八五

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「平時子」の意味・わかりやすい解説

平時子
たいらのときこ
(?―1185)

平安末期の女性。平清盛(きよもり)の妻。兵部権大輔(ひょうぶごんだいすけ)平時信(ときのぶ)の女(むすめ)。兄は清盛の側近の権大納言時忠(ごんのだいなごんときただ)、妹滋子(しげこ)は後白河(ごしらかわ)上皇の女御(にょうご)。清盛との間に、宗盛(むねもり)、知盛(とももり)、重衡(しげひら)、徳子(とくこ)らをもうけ、1168年(仁安3)清盛とともに出家し、71年女(むすめ)徳子が高倉(たかくら)天皇の中宮(ちゅうぐう)になってから従(じゅ)二位に叙せられたので「二位尼(にいのあま)」と称された。80年(治承4)三后(さんごう)に准ぜられ、翌年清盛が死ぬと平家一門の後見的立場を占めたが、文治(ぶんじ)元年3月24日、長門(ながと)国(山口県)壇(だん)ノ浦(うら)の戦いで平家が滅亡した際、安徳(あんとく)天皇を抱いて入水(じゅすい)した。

[田中文英]

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百科事典マイペディア 「平時子」の意味・わかりやすい解説

平時子【たいらのときこ】

平清盛の妻。兵部権大輔(ひょうぶごんのだゆう)平時信の娘。清盛との間に宗盛,徳子(とくこ)らを生む。清盛とともに剃髪(ていはつ),二位尼(にいのあま)と称せられた。1185年平氏が壇ノ浦の戦大敗の際,安徳天皇を抱き入水(じゅすい)。
→関連項目兵範記

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「平時子」の解説

平時子
たいらのときこ

1126~85.3.24

平清盛の妻。父は平時信。母は藤原家範の女(孫とも)。時忠は同母弟。六波羅二位・八条二位・二位尼(にいのあま)・二品尼と称す。美福門院女房。平清盛の妻となり,宗盛・知盛・重衡および高倉天皇の中宮となった徳子を産んだ。1180年(治承4)准后,翌年には従二位に叙され,平家一門のなかで影響力をもった。83年(寿永2)平家の都落ちに従い,85年(文治元)壇ノ浦で安徳天皇を抱いて入水。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「平時子」の解説

平時子 たいらの-ときこ

1126-1185 平安時代後期,平清盛の妻。
大治(だいじ)元年生まれ。平時信の娘。宗盛,知盛,重衡,徳子(建礼門院)の母。出家後,従二位をおくられて二位尼とよばれた。平氏一門とともに都落ちし,元暦2年3月24日壇ノ浦の戦いで,安徳天皇をだいて海に身をなげた。60歳。
格言など】浪のしたにも都のさぶらうぞ(「平家物語」)

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改訂新版 世界大百科事典 「平時子」の意味・わかりやすい解説

平時子 (たいらのときこ)

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世界大百科事典(旧版)内の平時子の言及

【平清盛】より

…安徳天皇の即位(1180)により,清盛は天皇の外祖父の地位を得ることとなる。また高倉天皇自体,清盛の妻平時子の妹滋子(じし)(建春門院)が後白河院のもとに入って1161年(応保1)に生んだ天皇であった。この時子・滋子姉妹は桓武平氏高棟(たかむね)王系の平時信の子で,堂上公家平家の出であり,また桓武平氏の本宗の流れをくむ家柄である。…

【二位尼】より

…平安末期の女性。平時子。平清盛の妻。…

※「平時子」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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