広原庄(読み)ひろわらのしよう

日本歴史地名大系 「広原庄」の解説

広原庄
ひろわらのしよう

建久図田帳に豊前宇佐宮領として広原庄一〇〇丁とみえ、那珂郡に属し、弁済使は七郎助綱であった。これを踏襲した応永二八年(一四二一)二月二七日の追記では広原社一二〇丁とある。しかし宇佐大鏡には当庄の名はみえず、那珂郡の宇佐宮領の庄園としては那珂庄、田島たじま(現佐土原町)生野うりゆうの別符・新名爪にいなづめ別符・大墓おおつか別符がみえる。このなかでのちに宇佐宮領として登場しない庄園は那珂庄である。この那珂庄は建久図田帳に載る八条女院領国富くどみ庄の那珂(現佐土原町)二〇〇町との関係が問題となるが、那珂庄が八条女院領に組込まれる可能性はなく、宇佐宮領田島庄と八条女院領国富庄田島郷(現同町下田島)との関係に似ている。おそらく宇佐大鏡に載る那珂庄の起請定田一〇〇町は広原庄の田数と一致しており、なんらかの理由から那珂庄はのち広原庄とよばれるようになった可能性を考える必要がある。広原は北側を国富庄の那珂郷と接しており、その区別から庄名を変えたのかもしれない。庄域は現在の広原より広く、現島之内しまのうちから海岸部の塩路しおじまでを含むといわれる。

宇佐大鏡によると、那珂庄は国司多治真人成助の任期中の永保三年(一〇八三)に宇佐宮の封民三八人の代として那珂郡内郡家ぐうけ院を宇佐宮に寄進し、神領として立券し開発された。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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