那珂郡(読み)なかぐん

日本歴史地名大系 「那珂郡」の解説

那珂郡
なかぐん

讃岐国の西部に位置する。東は鵜足うた郡、西は多度たど郡と三野みの郡、南は阿波国と接し、北は瀬戸内海に面する。中央部を金倉かなくら川が北流する。現丸亀市の北東部の一部を除く全域、善通寺市の北東部、仲多度なかたど郡の琴南ことなみ町を除く南部三町(ただし満濃町の西部地区を除く)の地域を郡域とした。

〔古代〕

「続日本紀」慶雲四年(七〇七)五月二六日条によると、天智天皇二年(六六三)の白村江の敗戦で捕虜となり、唐で官戸として使役されていた讃岐国那賀郡錦部刀良ら三名が、四〇余年ぶりに遣唐使に伴われて帰国したので、勤苦を哀れんで賜物があった。「万葉集」巻二に、柿本人麻呂が讃岐の狭岑さみね(沙弥島、現坂出市)で水死人を哀れんで作った歌を収めるが、人麻呂は「中乃水門」すなわち那珂の港から船出をして沙弥しやみ島に風を避けたのである。この歌の詠まれた年は不明であるが、慶雲四年よりやや前かと思われる。「三代実録」貞観八年(八六六)一〇月二七日条に那珂郡の因支首秋主・同姓道麿・宅主および多度郡の因支首純雄らが和気公の姓を賜ったことがみえるが、和気氏系図(東京国立博物館蔵)によると、秋主らの先祖忍尾別君は伊予国から讃岐に移り、因支首の娘を妻として住んだという。因支は稲置で、大化(六四五―六五〇)以前に那珂郡と多度郡にまたがる地域に稲置が置かれていたことがわかる。部として錦部の存在が前出「続日本紀」の記事によって推定される。

「和名抄」記載の郡内の郷は真野まの良野よしの子松こまつ高篠たかしの櫛无くしなし垂水たるみ喜徳きとく郡家ぐんけ柳原やなぎはら金倉かなくら智多ちたの一一郷で、中郡である。柳原は他の史料では柞原くばらとなっている。また智多郷は高山寺本には喜徳郷の傍らに小さく記され、のちの史料にもみえないので、戸口が減少して隣郷に吸収されたものとみなされている。元慶四年(八八〇)三月二六日の太政官符(類聚三代格)によると、当郡は一〇郷で課口が二千八〇あり、管郷が多くて職務が滞るので主政・主帳各一名を増員してほしいと申請し、承認されている。このあと「和名抄」が作成された承平年間(九三一―九三八)までにさらに一郷が増加したわけである。郡家郷は郡衙のあったところで、その跡は現丸亀市郡家ぐんげ町にある。天平一九年(七四七)二月一一日の法隆寺伽藍縁起并流記資財帳(正倉院文書)によると、奈良法隆寺の庄園三所が那珂郡に存在していた。また年代不明の造法華寺金堂所解(同文書)に、天平宝字三年(七五九)料として封戸から輸された三五〇匹のうち七〇匹が讃岐国那珂郡封と記されており、奈良法華寺の封戸が当郡にあったとみられる。


那珂郡
なかぐん

北は児湯こゆ郡、西から南にかけては諸県もろかた郡・宮崎郡と接する。郡域は古代から近世にかけてかなりの変動がある。古代は一ッ瀬川下流域を中心とする地域で、現児湯郡高鍋たかなべ町・新富しんとみ町、宮崎郡佐土原さどわら町、宮崎市の北東部を含む地域とされ、中世は現佐土原町と宮崎市の北東部の地域であったと考えられる。近世になると北は現佐土原町と宮崎市の東部から、南は日南市、南那珂郡北郷きたごう町・南郷なんごう町、串間市を含む広い地域にわたり、大きな郡域の変更があった。「和名抄」高山寺本に「那賀」、東急本・伊勢本・名博本・元和古活字本に「那珂」と記される。その名義に関して、「日向旧跡見聞録」は大穴持命が日向国を巡行したとき当地で「国の中なり」といったので中郡になったという古老伝を紹介している。「太宰管内志」はこの古老伝を載せ、また仲臣が居住したことに由来するとしている。

〔古代〕

「和名抄」によると、当郡は夜開やけ新名にいな田嶋たじま於部おべの四郷からなる。「色葉字類抄」は児湯郡に国府、那珂郡に府と注記しており、「日本地理志料」は国府は佐土原にあるとするが、これは中世以降の状態を示すと考えられる。通説では一ッ瀬川の右岸を駅路が走り、当磨たいま駅が置かれたとされる。宇佐大鏡によると、治暦二年(一〇六六)国司菅原義資が封民八人の代替として荒野を豊前宇佐宮に寄進して那珂郡内に新名爪にいなづめ別符(現宮崎市)が開発された。永保三年(一〇八三)には国司多治成助が封民三八人の代替として那珂郡内郡家ぐうけ院を宇佐宮に寄進して那珂庄(のちの広原庄か)が立券された。また寛治七年(一〇九三)には国司中原章重が封民四〇人の代替として、田島院司に命じて開発させた田畠を宇佐宮に寄進して田島たじま(現佐土原町)が立券された。建久図田帳では「和名抄」段階で宮崎郡に属していた江田えだ社三〇丁が那珂郡となっており、郡境が南に移動している。

〔中世〕

建久図田帳によれば、宇佐宮領として広原ひろわら庄一〇〇丁(弁済使は土持助綱)・新名爪別符八〇丁(弁済使は土持宣綱)鷹居たかい別符四〇丁(弁済使は藤二)竹崎たけざき別符四五丁(弁済使は三郎)わたり別符五〇丁(弁済使は田四郎、現宮崎市)妻万つま(現西都市)領として江田社三〇丁(弁済使は宗遠、現宮崎市)があり、また八条女院領の国富くどみ庄一円庄として那珂・田島破・ふくろ(現佐土原町)があり、地頭はいずれも土持信綱(宣綱)であった。那珂郡北東部は土持氏が支配下に置いており、南部には散在的な開発地である別符が成立していた。


那珂郡
なかぐん

筑前国の中央部西寄りに位置し、東は席田むしろだ郡・御笠みかさ郡、南は背振せふり山地を隔てて肥前国基肄きい郡、西は早良さわら郡に接し、北は博多湾に臨む。中央部を那珂川が北流する。近世の郡域はおよそ現福岡市博多区・中央区・南区、筑紫ちくし那珂川なかがわ町、春日市に相当する。

〔古代〕

「延喜式」民部上、「和名抄」諸本に那珂とみえ、文字の異同はない。訓を欠くが、「和名抄」の讃岐国那珂郡の訓「奈加」(東急本)、武田家本「延喜式」神名帳の傍訓「ナカ」などを参考にし「なか」と読む。同神名帳にみえる八幡大菩薩筥崎宮が現福岡市東区箱崎はこざき一丁目に鎮座する筥崎宮であることからすれば、同宮を含み同宮から現在の多々良たたら川河口へ砂洲状に延びる地域は、古代においては糟屋かすや郡ではなく、当郡に所属したと考えられる。那珂の地名は「後漢書」倭伝や、「魏志」東夷伝倭人条にみえる「奴国」に由来するとされ、天明四年(一七八四)に博多湾の志賀しか島で発見された金印(福岡市博物館蔵)は、「後漢書」に建武中元二年(五七)に光武帝が「倭の奴国」の使者に与えたと記されるもので、印文「漢委奴国王」は「漢の(倭)の奴の国王」と読下すのが通説である。「日本書紀」仲哀天皇八年正月二一日条には「儺県」がみえ、神功皇后摂政前紀・仲哀天皇九年四月三日条には神功が神田に「儺河」から水を引くため溝を掘った際、邪魔になる大磐が落雷によって砕かれ水を通せたという「裂田溝」伝承が記される。郡名の初見は大野城市牛頸うしくびの牛頸ハセムシ窯跡群から出土した須恵器の篦書「筑紫前国奈珂郡手東里大神□身(中略)并三人調大和銅六□」で、他の破片にも「筑紫前国奈珂郡手東里」「仲郡」などの刻銘がある(牛頸ハセムシ窯跡群II)。博多区那珂三丁目の那珂深なかふかヲサ遺跡からは墨書土器「中寺」も発見されており(那珂深ヲサ遺跡II)、近接する那珂四丁目の小字君休を「群久」と意改して郡家にあてる見解もある。「類聚国史」延暦一二年(七九三)八月二三日条に、在京中での乱行により「筑前国那賀郡人三宅連真継」を本郷に逓送し入京を許さなかったという記事があるほか、天長三年(八二六)一二月二七日条には同年七月七日に「筑前国那賀郡之上」に慶雲が現れたこと、「続日本後紀」承和元年(八三四)正月一六日条にも「筑前国那珂郡」に慶雲が現れた記事がある。延喜五年観世音寺資財帳に和銅四年(七一一)一〇月二五日の太政官符により施入された「那珂郡 三段百卅歩中田」の坪付記載がある。


那珂郡
なかぐん

面積:四三七・七〇平方キロ
山方やまがた町・美和みわ村・緒川おがわ村・大宮おおみや町・瓜連うりづら町・那珂なか町・東海とうかい

北から東に流れる久慈川流域の低地帯と南の那珂川中下流域の間に位置し、北西には標高四〇〇―五〇〇メートルの鷲子とりのこ山塊があり、中央部は標高三五メートル前後の台地をなし、東は太平洋に面する。北は東から日立市、常陸太田市、久慈郡金砂郷かなさごう村・水府すいふ村・大子だいご町に接し、南は勝田市、水戸市、東茨城郡常北じようほく町・桂村・御前山ごぜんやま村に接する。西は栃木県。

〔原始〕

先土器時代の遺跡が久慈川の河床より比高約四〇メートルの河岸段丘上と、標高六四メートルの舌状台地をなす那珂川の河岸段丘上に発見される。前者は山方町の山方遺跡で、岩宿Iまたは権現山IIに対比される石器を出土した。後者は大宮町小祝の梶巾こいわいのかじはば遺跡で、出土状況などから石器の製造所と考えられている。またその表土面からは縄文時代前期・中期の土器片や弥生時代後期の十王台式土器も出土した。先土器時代の遺跡はほかに那珂町額田大宮ぬかだおおみや遺跡などがある。縄文時代遺跡は早期後半以降のものは数多いが、晩期になると数は少なくなる。弥生時代の遺跡は、山方町中台なかだい遺跡、那珂町海後かいご遺跡などがある。

古墳時代の住居跡は東海村須和間すわま小沢野おざわので四七棟が発見され、古墳は東海村の舟塚ふなづか古墳群・真崎まさき古墳群など、瓜連町の新宿あらじゆく古墳群、大宮町の岩崎いわさき古墳群・富士山ふじやま古墳群・一騎山いつきやま古墳群などがある。那珂町門部かどべ白河内しらこうちにある円墳は古墳後期のものと思われる切石積の横穴式石室を有し、奥壁全面に風景を描いたとみられる線刻画がある。これは県内では例のない特色のある古墳である。

〔古代〕

「古事記」の神武天皇段に「常道仲国造」とみえ、「常陸国風土記」に「那賀郡」、「和名抄」にも「那賀郡」とみえる。当時の那賀なか郡はほぼ現在の那珂郡と東茨城郡の北半の地にあたる。「常陸国風土記」によると南は香島かしま郡・茨城郡、西は新治にいはり郡・下野国、北は久慈郡であったが、大化五年(六四九)下総国海上うなかみ国造部内一里と那賀国造部内の寒田さむた以北五里をもとに香島郡が設置され、白雉四年(六五三)行方なめかた郡の新設時にも那珂の地七里が分割されたことをみると、北浦の両岸も那賀の関係地であったとみられる。


那珂郡
なかぐん

「和名抄」にみえ、訓は名博本に「ナカ」とある。異訓はないが、古代―近世を通じ那賀とも書かれた。江戸時代の郡境は、北と西は児玉郡、東は榛沢はんざわ郡、南は秩父郡に接し、現在の児玉郡美里みさと町の大部分と同郡児玉町の一部にあたる。

〔古代〕

「和名抄」の諸本ともに那珂郷・中沢なかさわ郷・水保みずほ郷・弘紀ひろき郷の四郷を載せるが、承和一〇年(八四三)以前は三郷であった。「続日本後紀」同年五月八日条に「武蔵国那珂郡、元来小郡、官員約少、而今戸口増益、結定四郷、政多職少、不須行、拠准令条、誠裕下郡、改小為下、更増一員」とある。令の規定によれば三里(のちの郷)までが小郡で、四里からは下郡と称するので、一郷の増加が人口増によって行われたことがわかるが、四郷のうちのどの郷が新設されたのかは不明である。「万葉集」巻二〇に天平勝宝歳年(七五五)交替で筑紫へ向かった防人たちの歌が収められているが、武蔵国部領防人使正六位上安曇宿禰三国の提出した武蔵国の歌のなかに「上丁那珂郡檜前舎人石前之妻大伴部真足女」の作がある。承和七年に加美かみ郡の人、檜前舎人直由加麿らが都へ移住したことが知られており(「続日本後紀」同年一二月二七日条)、武蔵国北西部には檜前舎人の一族が分布していたことがわかる。「万葉集」巻九には「那賀郡曝井歌一首」として「三栗の那賀に向へる曝井さらしいの絶えず通はむそこに妻もが」が載っている。国名が記されておらず、武蔵国と常陸国の歌に挟まれているため、あるいは常陸国の那賀郡かもしれないが、武蔵国とすれば美里町広木ひろきの小字曝井さらしいにあてることができる。広木は弘紀郷の遺称地とされる。

那衙は地名から現美里町古郡ふるこおりに推定されている。郡衙跡は未確認だが、古郡の南東八〇〇メートルにある岡部おかべ町の北坂きたさか遺跡は、周囲に溝や塀を巡らした掘立柱建物・倉庫・竪穴住居で構成され、出土品に倉庫の鍵、灰釉陶器、「中」の字の鉄製焼印などがあって、一般農民ではなく官人の居宅ではないかと推定されている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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