広原村(読み)ひろわらむら

日本歴史地名大系 「広原村」の解説

広原村
ひろわらむら

[現在地名]高原町広原

ふもと村の北西、東流する木場田こばた川流域にある。北端から南東へと辻の堂つじのどう川が木場田川などを合せながら流れる。麓村より辻の堂川対岸つつみ(現小林市)境を経て小林、飯野いいの(現えびの市)方面へ向かう道が通る。当村は寛文四年(一六六四)の諸県郡村高辻帳に村名が記載されない。だが小林郷に属していたとみられる。延宝八年(一六八〇)一二月二九日高原郷より高崎たかさき郷の分立が命ぜられた後の高原郷の再編成に際し、翌九年五月一七日、「小林之内広原村ニ用夫廿人相添高原ニ附、野尻より衆中七人、同所之内水流村ニ用夫九十三人相添高原附」と、野尻のじり水流つる(現都城市)とともに高原郷に編入された(「年代記」三州御治世要覧など)。日向国覚書には広原と温水ぬくみ(現小林市)内広原を記すが、ともに村高の記載はない。


広原村
ひろわらむら

[現在地名]臼杵市武山たけやま 広原

臼杵川の上流域、同川支流勘場かんば川と中臼杵川に挟まれた山間にあり、東は中臼杵川を挟んで挟岡はざおか村、南は提内ひさげうち村。慶長二年(一五九七)の臼杵庄検地帳写(渡辺家文書)に村名がみえ高一四〇石余、うち田方五二石余・畑方八七石余、村位は中。同一一年の惣御高頭御帳では家野村組に属し同高、村役人勘解由・新左衛門を記す。寛永一一年(一六三四)の郷村高付帳(臼杵藩政史料)でも家野村組に所属、のち家野組に属した(万用集)。正保二年(一六四五)の稲葉能登守知行高付帳では本高九一石余・出来高四八石余。正保郷帳に村名はみえず、提内村に含まれたと考えられる。


広原村
ひろわらむら

[現在地名]宮崎市広原

島之内しまのうち村の西に位置し、飫肥おび街道が当村の東部を南北に走る。那珂郡に属する。「ひろはら」ともよばれる。平安時代末期には当地一帯に豊前宇佐宮領広原庄が成立していた。天正一六年(一五八八)八月四日の日向国知行方目録に広原一二〇町とあり、島津豊久領となっている。慶長五年(一六〇〇)高橋氏が伊東方によって宮崎城を攻め取られた直後、佐土原勢が当地と新名爪にいなづめ年貢米佐土原さどわら(現佐土原町)へ運ぶ途中、同城麓で伊東勢に襲撃されている(「島津豊久譜」旧記雑録)


広原村
ひろわらむら

[現在地名]加西市広原町

佐谷さたに村の南西万願寺まんがんじ川上流左岸に位置する。支流芥田けた川が村の中央部を南流し、北端付近で万願寺川に合流する。慶長国絵図に村名がみえる。正保郷帳では田方二四七石余・畑方三四石余。領主の変遷は元禄一四年(一七〇一)幕府領となるまでは鍛冶屋かじや村と同じ。宝永四年(一七〇七)伏見奉行建部氏(林田藩)(「歳之当御条目」吉野町有文書)、正徳四年(一七一四)幕府領となり、これ以後分郷され上広原村・下広原村となる(寛保三年「上広原村明細帳」広原町有文書)。上広原村は高九七石余(同村明細帳)。享保六年(一七二一)から姫路藩預地(享保一〇年「上広原村年貢免状」広原町有文書など)、寛保元年(一七四一)姫路藩領となり幕末に至る(同二年「上広原村年貢免状」同文書など)


広原村
ひろはらむら

[現在地名]和歌山市広原

名草なくさ郡に属し、名草山の北東麓、冬野ふゆの村の北西にある。元応二年(一三二〇)五月八日付和田庄中分一方帳写(国立史料館蔵)に「広原寺」がみえ、中世は和田庄吉原よしはら郷に属したと考えられる。慶長検地高目録によると高二八二石余、小物成二斗九升九合。文久二年(一八六二)の毛見差出帳(和歌山大学蔵)によれば、家数四三、人数は男一〇五・女九三、牛一四。


広原村
ひろわらむら

[現在地名]野津町はる 広原

下藤しもふじ村の西にあり、北を野津川が蛇行して西さらに北へと流れる。慶長二年(一五九七)の野津院検地帳写(渡辺家文書)には下藤村など二村と一括された広原村分の一冊が含まれ、村位は下。同一一年の惣御高頭御帳に村名がみえ、高一一九石余。下ノ村組に属した。正保二年(一六四五)の稲葉能登守知行高付帳によれば本高一四二石余・出来高二石余、田方六七石余・畑方七七石余。正保郷帳では野津之院に属し、高三二六石余(田方一〇二石余・畑方二二四石余)には下藤村分も含まれる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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