日本歴史地名大系 「広山村」の解説 広山村ひろやまむら 兵庫県:龍野市広山村[現在地名]龍野市誉田町広山(ほんだちようひろやま)高駄(たかだ)村の東に位置し、東は林田(はやしだ)川を隔てて宿(しゆく)(鵤宿)村。揖東(いつとう)郡に属する。「和名抄」に記載される揖保(いぼ)郡広山郷の遺称地とされる。中世には弘山(ひろやま)庄に含まれ、中世山陽道の弘山宿があった。慶長六年(一六〇一)の弘山村検地帳(塩津家文書)が残り、田方では裏作に麦が作付されており、畑方では大豆・木綿・蕎麦・粟や茶・桑などが栽培されている。慶長国絵図には「ひろ山村」とみえる。江戸時代の領主の変遷は北龍野村と同じ。寛永一三年(一六三六)の龍野領村々高辻帳(八瀬家文書)では池田輝政による内検地高九六一石余、高七九四石余。 広山村ひろやまむら 兵庫県:佐用郡三日月町広山村[現在地名]三日月町広山細月(みかづき)村の西、乃井野(のいの)村の南、北から流れてきた志文(しぶみ)川が西に向きを変える南岸の氾濫原に立地する。川原(かわら)・上河原(かみがわら)・出口河原(でぐちかわら)の地名がある。江戸期の領主の変遷は久保(くぼ)村に同じ。正保郷帳に村名がみえ、田方四二石余・畠方三六石余。元禄郷帳では高八五石余。天保郷帳では高九七石余。江戸時代を通じて河原を新開したとみられる。年貢米などは揖保(いぼ)川筋の新宮(しんぐう)村(現新宮町)河岸へ道程四里、駄賃二匁五分で運び、網干(あぼし)浦(現姫路市)へ津出しした(延宝七年「津出し道法等書上」間嶋家文書)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報