記紀に第29代と伝える天皇。継体(けいたい)天皇と手白香(たしらか)皇后(仁賢(にんけん)天皇の女(むすめ))の嫡子。名は伝わらず、和風諡号(しごう)は天国排開広庭天皇(あめくにおしはらきひろにわのすめらみこと)という。即位の事情については、継体天皇の死の直前、もしくは直後即位し、安閑(あんかん)・宣化(せんか)両天皇の「王朝」と並立したという説がある。この欽明朝において特筆すべきは対朝鮮問題である。この時期、新羅(しらぎ)はその国力の充実を背景に「任那(みまな)」諸国(加耶(かや))の有力国、南加羅(から)(金官(きんかん)国)の併合(532)、安羅(あら)(咸安(かんあん))、大加耶(おおかや)(高霊(こうれい))の併合(562)を推し進め、日本の権益ともかかわっていた「任那」諸国を完全に統属。この新羅に脅威を感じた日本と百済(くだら)とは同盟を強化、百済の聖明(せいめい)王からの「仏教公伝」、五経博士の来朝などは、こうした同盟関係を背景としている。一方、国内的には、蘇我(そが)氏が台頭してくる時期で、蘇我稲目(いなめ)は大臣(おおおみ)として国政に参加、女(むすめ)の堅塩媛(きたしひめ)、小姉君(おあねぎみ)を欽明天皇の妃として納(い)れ、外戚(がいせき)の地位を築き、開明的な政策を推進した。欽明陵は、檜隈(ひのくま)(奈良県高市(たかいち)郡明日香(あすか)村)坂合(さかあい)陵とされているが、全長318メートルの巨大な前方後円墳見瀬(みせ)丸山古墳(奈良県橿原(かしはら)市)に比定する説も強い。
[小林敏男]
『末松保和著『任那興亡史』(1971・吉川弘文館)』▽『山尾幸久著『日本国家の形成』(岩波新書)』
(大平聡)
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第29代に数えられる天皇。《古事記》《日本書紀》によると継体天皇の嫡子で母は皇后手白香(たしらか)皇女。異母兄の宣化天皇の死後をうけて539年に即位し,大和の磯城嶋金刺宮(しきしまのかなさしのみや)におり,宣化天皇の女の石姫を皇后として敏達天皇を生み,蘇我稲目の女の堅塩媛(きたしひめ)を妃として用明,推古両天皇,その同母妹の小姉君(おあねぎみ)を妃として崇峻天皇を生んだという。治世の初めは大伴金村と物部尾輿(おこし)が大連,蘇我稲目が大臣だったが,まもなく金村が朝鮮政策の失敗を攻撃されて失脚し,その後百済から仏教が公式に伝えられると,崇仏の可否をめぐって稲目と尾輿の対立が激化していったとされる。ただし今日では,531年とみられる継体天皇の死後に,実は一方で欽明天皇が即位して,安閑,宣化両天皇の朝廷と対立する両朝分立の状態が生じ,それが約8年後に欽明朝によって統一されたのであって,金村の失脚はそのことと関係があり,また仏教の公伝はその統一の前の戊午(538)の年だったとする見方が有力となっている。天皇は《古事記》《日本書紀》によれば571年に病死して,檜隈坂合(ひのくまのさかい)に葬られたという。
→継体・欽明朝の内乱
執筆者:関 晃
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記紀系譜上の第29代天皇。在位は6世紀中頃。天国排開広庭(あめくにおしはらきひろにわ)天皇と称する。継体天皇の嫡子。母は仁賢天皇の女手白香(たしらか)皇女。天皇の時代には蘇我稲目(いなめ)が大臣(おおおみ)として権勢をふるい,稲目の女堅塩媛(きたしひめ)・小姉君(おあねぎみ)は天皇の妃となって多くの皇子女を生み,蘇我氏発展の基礎を築いた。「日本書紀」によれば,日本府において百済(くだら)の聖明王と伽耶(かや)諸国の王との間で任那(みまな)復興の協議を行わせ,のち552年,聖明王から仏像・経典などが送られたという。ただし「上宮聖徳法王帝説」などでは仏教渡来は538年のこととする。陵は檜隈坂合(ひのくまのさかあい)陵で,奈良県明日香村にあるが,同県橿原市五条野(見瀬)丸山古墳をそれにあてる説も強い。
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…《日本書紀》では継体天皇の死をその25年辛亥(531)のこととし,安閑天皇1年(534)までの2年間は空位とされる。一方,仏教公伝を《日本書紀》が壬申年(552)とするのに対し戊午年(538)として伝える《上宮聖徳法王帝説》や《元興寺縁起》によれば,欽明天皇の即位は辛亥年となって先の継体没年とつながり,その間に安閑・宣化2天皇の治世をいれる余地がない。これらのことは明治期の紀年論において問題とされ,《日本書紀》の紀年よりも《古事記》の天皇崩年干支を重視する立場からは,継体の死を崩年干支の丁未年(527)のこととし,欽明即位の辛亥年(531)との間に安閑・宣化2天皇の治世をくりあげる解釈が出された。…
※「欽明天皇」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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