欽明天皇(読み)キンメイテンノウ

デジタル大辞泉 「欽明天皇」の意味・読み・例文・類語

きんめい‐てんのう〔‐テンワウ〕【欽明天皇】

[510~571]第29代の天皇。継体天皇の皇子。名は天国排開広庭あめくにおしはらきひろにわ。在位中に百済くだらから仏教が伝来したという。

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精選版 日本国語大辞典 「欽明天皇」の意味・読み・例文・類語

きんめい‐てんのう‥テンワウ【欽明天皇】

  1. 第二九代天皇。継体天皇の第三皇子。名は天国排開広庭尊(あめくにおしはらきひろにわのみこと)。「日本書紀」によれば、五三九年即位し、都を大和磯城嶋金刺宮(やまとしきしまのかなさしのみや)に遷(うつ)す(五三一年即位説もある)。在位三二年の治世中、百済王仏像経典を献じ、日本に初めて仏教が渡来した。また、任那(みまな)の日本府が新羅(しらぎ)によって滅ぼされた。(五一〇‐五七一

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「欽明天皇」の意味・わかりやすい解説

欽明天皇
きんめいてんのう
(510―571)

記紀に第29代と伝える天皇。継体(けいたい)天皇と手白香(たしらか)皇后(仁賢(にんけん)天皇の女(むすめ))の嫡子。名は伝わらず、和風諡号(しごう)は天国排開広庭天皇(あめくにおしはらきひろにわのすめらみこと)という。即位の事情については、継体天皇の死の直前、もしくは直後即位し、安閑(あんかん)・宣化(せんか)両天皇の「王朝」と並立したという説がある。この欽明朝において特筆すべきは対朝鮮問題である。この時期、新羅(しらぎ)はその国力の充実を背景に「任那(みまな)」諸国(加耶(かや))の有力国、南加羅(から)(金官(きんかん)国)の併合(532)、安羅(あら)(咸安(かんあん))、大加耶(おおかや)(高霊(こうれい))の併合(562)を推し進め、日本の権益ともかかわっていた「任那」諸国を完全に統属。この新羅に脅威を感じた日本と百済(くだら)とは同盟を強化、百済の聖明(せいめい)王からの「仏教公伝」、五経博士の来朝などは、こうした同盟関係を背景としている。一方、国内的には、蘇我(そが)氏が台頭してくる時期で、蘇我稲目(いなめ)は大臣(おおおみ)として国政に参加、女(むすめ)の堅塩媛(きたしひめ)、小姉君(おあねぎみ)を欽明天皇の妃として納(い)れ、外戚(がいせき)の地位を築き、開明的な政策を推進した。欽明陵は、檜隈(ひのくま)(奈良県高市(たかいち)郡明日香(あすか)村)坂合(さかあい)陵とされているが、全長318メートルの巨大な前方後円墳見瀬(みせ)丸山古墳(奈良県橿原(かしはら)市)に比定する説も強い。

[小林敏男]

『末松保和著『任那興亡史』(1971・吉川弘文館)』『山尾幸久著『日本国家の形成』(岩波新書)』

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朝日日本歴史人物事典 「欽明天皇」の解説

欽明天皇

没年:欽明32(571)
生年:生年不詳
6世紀の天皇。生年は6世紀初めごろと考えられる。継体天皇と武烈天皇の同母姉・手白香皇女の子。即位前は天国排開広庭皇子と記される。宣化天皇死後の即位要請に対し,年少であることを理由に辞退,安閑天皇の皇后であった春日山田皇女を推したが,皇女が固辞したため539年即位したという。『日本書紀』では,継体死後,年齢の順に安閑,宣化,欽明と即位したと伝えるが,継体の死亡記事のもととなった『百済本記』は,太子,皇子も共に死んだと伝える。このことから,継体死後,安閑・宣化が欽明と争って破れた(辛亥の変)とする説や,二朝並立説が出されている。『日本書紀』と異なる仏教公伝年を伝える『上宮聖徳法王帝説』や『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』によれば,欽明即位は継体の死んだ翌年(532)となる。 欽明天皇の時代,最大の政治課題は朝鮮半島をめぐる国際情勢にあった。国力を増強させ,伽耶諸国に侵入しようとする新羅に対し,同じく伽耶地域への勢力拡大をめざしていた百済は,倭国の支援を得て新羅の侵入を阻止しようとした。これが,いわゆる「任那日本府」における任那復興会議である。かつて日本(倭国)の指導性が強調され,倭国の南部朝鮮支配の根拠として挙げられてきたが,最近では百済の指導のもとに結集した伽耶諸国の会議に倭臣が参加したとする解釈が出され,日本府についても,倭国の機関でなく,伽耶諸国が倭国と交渉するために置いた機関とする説もある。しかし,新羅の勢いは止められず,欽明は死に臨んで新羅を討って任那を復興するよう遺詔した。百済の聖明王の仏教伝達,五経博士や技術者派遣は支援要請に対する見返りという性格が強い。このとき渡来した人々の与えた影響は大きい。吉備(岡山県)に設置された白猪屯倉経営にかかわり,丁籍(戸籍)を作った百済人胆津(戸籍作成によって税収の実績を挙げ,白猪史の姓を賜っている)はその一例である。大和地方最後の巨大前方後円墳,見瀬丸山古墳(橿原市)に葬られた可能性が高い。<参考文献>鈴木靖民他『伽耶はなぜほろんだか』

(大平聡)

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改訂新版 世界大百科事典 「欽明天皇」の意味・わかりやすい解説

欽明天皇 (きんめいてんのう)

第29代に数えられる天皇。《古事記》《日本書紀》によると継体天皇の嫡子で母は皇后手白香(たしらか)皇女。異母兄の宣化天皇の死後をうけて539年に即位し,大和の磯城嶋金刺宮(しきしまのかなさしのみや)におり,宣化天皇の女の石姫を皇后として敏達天皇を生み,蘇我稲目の女の堅塩媛(きたしひめ)を妃として用明,推古両天皇,その同母妹の小姉君(おあねぎみ)を妃として崇峻天皇を生んだという。治世の初めは大伴金村と物部尾輿(おこし)が大連,蘇我稲目が大臣だったが,まもなく金村が朝鮮政策の失敗を攻撃されて失脚し,その後百済から仏教が公式に伝えられると,崇仏の可否をめぐって稲目と尾輿の対立が激化していったとされる。ただし今日では,531年とみられる継体天皇の死後に,実は一方で欽明天皇が即位して,安閑,宣化両天皇の朝廷と対立する両朝分立の状態が生じ,それが約8年後に欽明朝によって統一されたのであって,金村の失脚はそのことと関係があり,また仏教の公伝はその統一の前の戊午(538)の年だったとする見方が有力となっている。天皇は《古事記》《日本書紀》によれば571年に病死して,檜隈坂合(ひのくまのさかい)に葬られたという。
継体・欽明朝の内乱
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百科事典マイペディア 「欽明天皇」の意味・わかりやすい解説

欽明天皇【きんめいてんのう】

6世紀中ごろの天皇。継体天皇の皇子。父の死後,兄の安閑(あんかん)・宣化(せんか)両天皇の即位を認めず,別に朝廷を開いて対立したとの説がある。在位中,国内では崇仏(すうぶつ)の是非をめぐって蘇我・物部両氏の対立があり,国外では任那(みまな)が滅亡した。《日本書紀》によれば,539年に即位,571年に病死という。
→関連項目穴穂部皇子推古天皇崇峻天皇帝紀物部尾輿

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「欽明天皇」の解説

欽明天皇
きんめいてんのう

記紀系譜上の第29代天皇。在位は6世紀中頃。天国排開広庭(あめくにおしはらきひろにわ)天皇と称する。継体天皇の嫡子。母は仁賢天皇の女手白香(たしらか)皇女。天皇の時代には蘇我稲目(いなめ)が大臣(おおおみ)として権勢をふるい,稲目の女堅塩媛(きたしひめ)・小姉君(おあねぎみ)は天皇の妃となって多くの皇子女を生み,蘇我氏発展の基礎を築いた。「日本書紀」によれば,日本府において百済(くだら)の聖明王と伽耶(かや)諸国の王との間で任那(みまな)復興の協議を行わせ,のち552年,聖明王から仏像・経典などが送られたという。ただし「上宮聖徳法王帝説」などでは仏教渡来は538年のこととする。陵は檜隈坂合(ひのくまのさかあい)陵で,奈良県明日香村にあるが,同県橿原市五条野(見瀬)丸山古墳をそれにあてる説も強い。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「欽明天皇」の解説

欽明天皇 きんめいてんのう

?-571 記・紀系譜による第29代天皇。在位539-571。
継体天皇の皇子。母は手白香(たしらかの)皇后。「日本書紀」によると,都は磯城嶋金刺(しきしまのかなさしの)宮。朝鮮半島では新羅(しらぎ)が勢力をのばして任那(みまな)をほろぼし,釈迦仏や経論などを日本につたえた百済(くだら)の聖明王も新羅との戦いで戦死。国内では崇仏をすすめる大臣の蘇我稲目(そがの-いなめ)が力をつよめた。欽明天皇32年4月死去。墓所は檜隈坂合陵(ひのくまのさかあいのみささぎ)(奈良県明日香村)。別名は天国排開広庭天皇(あめくにおしはらきひろにわのすめらみこと),志帰島(しきしまの)天皇。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「欽明天皇」の意味・わかりやすい解説

欽明天皇
きんめいてんのう

第 29代に数えられる天皇。名はアメクニオシハラキヒロニワノミコト。継体天皇の皇子。母は皇后手白香 (たしらか) 皇女。6世紀なかば在位。この欽明朝に百済の聖明王が仏像経論を献じた。公式にはこれが仏教の最初の渡来とされているが,崇仏に関し蘇我,物部両氏の対立があった。対外的には,朝鮮との関係が新羅の進出に伴ってふるわず,日本人出先官憲の不正,失政も手伝って,危機にあった任那は新羅の傘下に入り,任那日本府はついに滅ぼされた。天皇はこのことを遺憾とし,その回復を遺詔して薨去したといわれる。宣化天皇の皇女の石姫を皇后とし,大和磯城島金刺宮に都した。陵墓は奈良県高市郡明日香村の檜隈坂合陵。

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旺文社日本史事典 三訂版 「欽明天皇」の解説

欽明天皇
きんめいてんのう

510ごろ〜571
6世紀半ばの天皇(在位531〜571 (ごろ) )
継体天皇の皇子。『日本書紀』は即位を540年としているが,『上宮聖徳法王帝説』などは531年即位説をとり対立している。このことから531〜539年までは異母兄の安閑・宣化朝と並立していたと考え,内乱発展したとする学説が出されている。在位中,538年百済 (くだら) の聖明王が仏像・経論を伝え,562年新羅 (しらぎ) のために「任那 (みまな) 日本府」が滅亡するなど,国内・対外関係とも緊張した時期であった。

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世界大百科事典(旧版)内の欽明天皇の言及

【継体・欽明朝の内乱】より

…《日本書紀》では継体天皇の死をその25年辛亥(531)のこととし,安閑天皇1年(534)までの2年間は空位とされる。一方,仏教公伝を《日本書紀》が壬申年(552)とするのに対し戊午年(538)として伝える《上宮聖徳法王帝説》や《元興寺縁起》によれば,欽明天皇の即位は辛亥年となって先の継体没年とつながり,その間に安閑・宣化2天皇の治世をいれる余地がない。これらのことは明治期の紀年論において問題とされ,《日本書紀》の紀年よりも《古事記》の天皇崩年干支を重視する立場からは,継体の死を崩年干支の丁未年(527)のこととし,欽明即位の辛亥年(531)との間に安閑・宣化2天皇の治世をくりあげる解釈が出された。…

※「欽明天皇」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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