朝日日本歴史人物事典 「広橋兼勝」の解説
広橋兼勝
生年:永禄1.10.22(1558.12.1)
安土桃山・江戸時代初期の公家。贈内大臣国光の子。母は日野輝資の娘。天正8(1580)年参議,10年権中納言,慶長2(1597)年権大納言となる。慶長8年ごろから没するまで武家伝奏に任じられ,朝幕間の調停斡旋に努めた。公家の中でも最も武家寄りの行動をとり,慶長8年の徳川家康参内以来,武家昵近衆として将軍との諸礼に出仕した。元和4(1618)年内大臣となる。死去に際して『春日社司祐範記』には「叡慮悉皆御執権,出頭無双之伝奏也」とその権勢を評された。一方では元和5年9月,将軍秀忠の命により万里小路充房らの公家が処罰された事件に際しては,武家の朝廷への圧力に反発する後水尾院側近公家衆からは,「広橋内府ハ三百年以来之奸佞之残賊臣也,於唐土趙季斯,於本朝はイルカ,守屋之臣倍せる者也」(『土御門泰重卿記』)ときびしく評される一面もあった。法名是称院。<参考文献>藤井譲治「江戸幕府の成立と天皇」(『講座前近代の天皇』2巻)
(母利美和)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報