コトバンクはYahoo!辞書と技術提携しています。

広橋兼勝 ひろはし かねかつ

3件 の用語解説(広橋兼勝の意味・用語解説を検索)

美術人名辞典の解説

広橋兼勝

江戸前期の公卿・歌人。父は広橋国光。本姓は藤原、一字名は、喬・貢。権大納言内大臣に任ぜられ、従一位に叙せられる。又、武家伝奏を務める。元和8年(1622)歿、65才。

出典|(株)思文閣
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

広橋兼勝 ひろはし-かねかつ

1558-1623* 織豊-江戸時代前期の公卿(くぎょう)。
永禄(えいろく)元年10月23日生まれ。広橋国光の子。天正(てんしょう)8年参議兼左大弁。権(ごんの)大納言をへて,従一位,内大臣となる。慶長8年から武家伝奏(てんそう)をつとめ,権勢をふるった。元和(げんな)8年12月18日死去。65歳。

出典|講談社 この辞書の凡例を見る
(C)Kodansha 2015.
書籍版「講談社 日本人名大辞典」をベースに、項目の追加・修正を加えたデジタルコンテンツです。この内容は2015年9月に更新作業を行った時点での情報です。時間の経過に伴い内容が異なっている場合がございます。

朝日日本歴史人物事典の解説

広橋兼勝

没年:元和8.12.18(1623.1.18)
生年:永禄1.10.22(1558.12.1)
安土桃山・江戸時代初期の公家。贈内大臣国光の子。母は日野輝資の娘。天正8(1580)年参議,10年権中納言,慶長2(1597)年権大納言となる。慶長8年ごろから没するまで武家伝奏に任じられ,朝幕間の調停斡旋に努めた。公家の中でも最も武家寄りの行動をとり,慶長8年の徳川家康参内以来,武家昵近衆として将軍との諸礼に出仕した。元和4(1618)年内大臣となる。死去に際して『春日社司祐範記』には「叡慮悉皆御執権,出頭無双之伝奏也」とその権勢を評された。一方では元和5年9月,将軍秀忠の命により万里小路充房らの公家が処罰された事件に際しては,武家の朝廷への圧力に反発する後水尾院側近公家衆からは,「広橋内府ハ三百年以来之奸佞之残賊臣也,於唐土趙季斯,於本朝はイルカ,守屋之臣倍せる者也」(『土御門泰重卿記』)ときびしく評される一面もあった。法名是称院。<参考文献>藤井譲治「江戸幕府の成立と天皇」(『講座前近代の天皇』2巻)

(母利美和)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

広橋兼勝の関連キーワード万里小路充房三条公広徳大寺実維牧興相酒井貞月弘尊安土桃山時代織豊時代沢庵政常

今日のキーワード

パラチオン、パラチオンメチル

パラチオンは無色で油状の液体、パラチオンメチルはコハク色の液体。ともに毒性が強く、有機リン系殺虫剤として使用された。50年代以降、稲の害虫被害を防ぐことが確認され、広く導入された。しかし、農民の中毒死...

続きを読む

コトバンク for iPhone