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内大臣 ないだいじん

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

内大臣
ないだいじん

(1) 令外官の一つ。内府ともいう。天智8 (669) 年藤原姓を賜わった中臣鎌足が任じられたのが最初で,左右大臣の下に位し,権限,待遇は左右大臣に準じた。その後いったん中絶し,奈良時代末期に復活,明治にいたったが,任命されない時期もあった。 (2) 1885年内閣制度発足に際し,宮中,府中の区別を厳にするために設けられた宮内官の一つ。内大臣と同義である内府は内大臣府の略称としても用いられる。内大臣は御璽,国璽を保管し,詔勅,その他宮中の諸文書に関する事務を管掌し,天皇の側近に常に侍して輔弼の任にあたった。元来,内大臣は宮内大臣や他の国務大臣のように皇室事務や一般国務について輔弼の責に任じるものではないが,宮内大臣が欠けていたり,内閣が総辞職して新内閣の発足するまでの期間のように輔弼の責にあるものが欠けている場合は天皇に奉仕し,意見を述べ補佐する任にあった。したがって,政変に際しては後継内閣の首班について天皇の下問に奉答するのが内大臣の職務のはずであったが,実際には内大臣の責任において奉答せず,元老に下問されるように奉答するのが常であった。しかし元老西園寺公望の晩年には後継内閣の首班奏薦について内大臣の意見が重要視され,太平洋戦争に突入してからは,政治的にきわめて重要な役割を果した。 1945年 11月廃官。

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デジタル大辞泉の解説

うち‐の‐おとど【内大臣】

ないだいじん(内大臣)

ない‐だいじん【内大臣】

令外(りょうげ)の官の一。藤原鎌足が死に臨んで任ぜられたのに始まり、初めは名誉称号であったが、のち、左右大臣を補佐し、その出仕しないときに政務を執った。うちのおおまえつぎみ。うちのおとど。
明治18年(1885)の内閣制度の発足とともに宮中に設置された官職。天皇を常時補佐して詔勅など宮中内部の文書に関する事務をつかさどった。昭和20年(1945)廃止。内府。

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百科事典マイペディアの解説

内大臣【ないだいじん】

(1)令外官(りょうげのかん)の一つ。左大臣右大臣の下の位。669年中臣鎌足(なかとみのかまたり)が任じられたのが初め。内府ともいう。太政官(だいじょうかん)の政務を行い左右大臣の政務も代行する。
→関連項目宮中顧問官後二条師通記山槐記重臣大臣

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世界大百科事典 第2版の解説

ないだいじん【内大臣】

(1)太政官の官職名で,左・右大臣に次ぐ大臣の称。令の制度には規定のない令外官(りようげのかん)で,〈うちのおおいまうちぎみ〉〈うちのおとど〉などとも称し唐名を内府(ないふ),内丞相(ないじようしよう),内相府(ないしようふ)と呼び,三公の一つとされた。669年(天智8)内臣(ないしん)藤原鎌足が任じられたのが初見である。当時の職掌,地位は未詳であるが,輔政の職務であったと思われる。鎌足の死後中絶し,光仁天皇の777年(宝亀8)に内臣藤原良継が,また779年内臣(忠臣)藤原魚名が内大臣に任じられた。

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大辞林 第三版の解説

うちのおおおみ【内大臣】

うちのおおまえつぎみ【内大臣】

うちのおとど【内大臣】

ないだいじん【内大臣】

令外の官の一。権限などは左右大臣に準ずる。669年に藤原鎌足が任ぜられたのが最初だが、常置されたのは一〇世紀以後。うちのおとど。うちのおおおみ。うちのおおいどの。うちのおおまえつぎみ。内府。
1885年(明治18)、内閣制度の創設により行政府から独立して設置された宮中の官。天皇に常侍して補佐にあたり、特に大正・昭和期大きな政治的発言力をもった。第二次大戦後廃止。内府。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

内大臣
ないだいじん

令外官(りょうげのかん)(令に規定された以外の官)の一つ。また別に明治以後天皇側近の重臣として設けられた官職。大化改新後、藤原鎌足(かまたり)が内臣(うちつおみ)に任ぜられて国家の枢機に参画し、死に臨み内大臣の称を賜り、奈良時代にも数人が内臣から内大臣に任命されたが、900年(昌泰3)醍醐(だいご)天皇の外祖父藤原高藤(たかふじ)が内臣を経ずに内大臣に任ぜられてからは、単に左右大臣に次ぐ大臣の地位となった。唐名は内府(ないふ)。明治維新後いったん廃絶したが、1885年(明治18)内閣制度の発足にあたり、改めて宮中に置かれ、御璽(ぎょじ)・国璽(こくじ)を尚蔵し、常侍輔弼(ほひつ)に任ずべき官職とされた。ただし内実は、太政(だじょう)官制の廃止に伴い、太政大臣三条実美(さねとみ)を優遇するため設けられたもので、実質的な職権はなかったが、のちには桂(かつら)太郎、木戸幸一など天皇側近の重臣として政治上にも影響力をもつようになった。敗戦により廃止。[橋本義彦]

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世界大百科事典内の内大臣の言及

【内大臣】より

…当時の職掌,地位は未詳であるが,輔政の職務であったと思われる。鎌足の死後中絶し,光仁天皇の777年(宝亀8)に内臣藤原良継が,また779年内臣(忠臣)藤原魚名が内大臣に任じられた。天皇が信頼する側近の臣が必要に応じて任命される臨時の大臣であった。…

【宮中】より

…また1879年に伊藤博文らは,宮中・府中の別を乱すという理由で,77年より宮内省に設けられた天皇側近の職である侍補等を廃止したり,あるいは参議が宮内卿を兼任しないという原則が主張されたりした。85年の太政官制の廃止,内閣制の創設は,制度的に宮中・府中の別を明確にし,宮内大臣は内閣の外にあるものとされた。しかし,同時に設置された宮中官としての内大臣は,天皇を常時輔弼(ほひつ)する立場から,ときに国政に関与することもあり,1912年の第3次桂太郎内閣成立のように,それまで内大臣兼侍従長であった桂が組閣するという例もあった。…

【藤原高藤】より

…勧修寺(かじゆうじ)一流の祖(勧修寺家)。865年(貞観7)蔵人となり,禁色の衣服着用を許され,ついで左近衛少将,兵部大輔等を歴任し,893年(寛平5)女の胤子の生んだ敦仁親王(醍醐天皇)が皇太子となるに及び,翌年従三位に昇り,以後累進して,900年ついに内大臣に任ぜられた。この内大臣は約120年ぶりに復活された令外官(りようげのかん)で,天皇の外祖父優遇の処置であるが,本来の内臣と密着した内大臣とは異なり,たんに右大臣に次ぐ地位と化した。…

※「内大臣」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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