(1)太政官の官職名で,左・右大臣に次ぐ大臣の称。令の制度には規定のない令外官(りようげのかん)で,〈うちのおおいまうちぎみ〉〈うちのおとど〉などとも称し唐名を内府(ないふ),内丞相(ないじようしよう),内相府(ないしようふ)と呼び,三公の一つとされた。669年(天智8)内臣(ないしん)藤原鎌足が任じられたのが初見である。当時の職掌,地位は未詳であるが,輔政の職務であったと思われる。鎌足の死後中絶し,光仁天皇の777年(宝亀8)に内臣藤原良継が,また779年内臣(忠臣)藤原魚名が内大臣に任じられた。天皇が信頼する側近の臣が必要に応じて任命される臨時の大臣であった。しかし平安時代に入ると900年(昌泰3)醍醐天皇の外戚藤原高藤,972年(天禄3)円融天皇の外戚藤原兼通がそれぞれ任じられて外戚の占める定員外の大臣となり,以後,員外の大臣,数の外の大臣,と称されて常置の官職化された。
執筆者:山本 信吉(2)近代の内大臣は内閣制度創設と同時に1885年12月に宮中に設けられた重職で,第2次大戦直後まで存続した。内大臣は天皇を〈常侍輔弼(ほひつ)〉し,内大臣府を統轄し,内大臣府は〈御璽国璽ヲ尚蔵シ及詔書勅書其ノ他内廷ノ文書ニ関スル事務ヲ掌ル〉とされた。明治憲法のもとでは国務大臣が天皇を輔弼しその責に任ずる,すなわち国務大臣が天皇の名において国政にあたりその責任をとることになっていたが,常侍輔弼とは天皇の側近につねに奉仕し,国務大臣が輔弼できない場合に,天皇の下問に応じて,天皇を輔弼することと解されていた。したがって政変などで首相が欠けた場合に天皇と政界上層部とのつなぎ役になることが予想されたのである。
初代内大臣にはそれまで太政大臣だった三条実美が任命され,三条の死後は侍従長徳大寺実則が内大臣を兼ねた。だがまもなく元老がつくられ,政変のさいの後継首相の決定は天皇が元老の意見を聞いて行ったから,内大臣はとくに政治的役割を果たさなかった。
しかし,大正天皇となって天皇と元老の信任関係が変化すると,内大臣の政治的役割にも関心が払われるようになった。1912年8月に元老桂太郎が内大臣兼侍従長となったのをはじめ,大山巌,松方正義と元老が就任した。やがて元老がしだいに没して大正末には西園寺公望だけとなり,しかも老齢で,そのうえようやく成立した政党内閣の慣行も満州事変以降の軍の台頭で終止符が打たれた。西園寺は後継首相候補者の推薦にあたって内大臣を含む重臣の意見を求めるようになり,二・二六事件を経て宇垣一成内閣が流産すると,推薦を辞退した。そして内大臣が天皇の下問をうけ,元老の意見も聞いてとりまとめに当たるようになった。この間,西園寺は軍部と結ぶ国家主義者の宮中入りを嫌い,内大臣には牧野伸顕,斎藤実,湯浅倉平と気骨ある穏健派を相ついですえた。そのため内大臣はつねに右翼テロの目標とされ,斎藤は二・二六事件で殺された。40年には若手の宮廷派の木戸幸一が内大臣となり,重臣会議のとりまとめ役となって,第2次近衛文麿,東条英機両内閣を成立させた。太平洋戦争のなかで天皇の動きが注目されるようになると,内大臣は天皇と政界上層部の間の唯一のパイプとして,重大な機能を果たした。内大臣は降伏後もしばらく存続し,45年10月には近衛文麿が内大臣府御用掛に任ぜられ憲法改正にあたった。しかし,これは内外の批判を浴び,内大臣府は11月に廃止された。
執筆者:今井 清一
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1古代の官名。令外官。天智朝で死去直前の内臣(うちつおみ)中臣鎌足に恩典として藤原姓と大織冠・大臣位を授け,藤原内大臣と通称した。光仁朝では,藤原良継が内臣から,藤原魚名(うおな)が内臣から忠臣をへて内大臣に任じられたが,これらは第四の大臣または員外の大臣(数外大臣(かずのほかのおとど))として太政官内に位置した。のち醍醐天皇の外祖父藤原高藤が任官して以来この性格が定着し,急速な昇進をする摂関家子弟や宿老の大納言などが任じられた。左右大臣が不参の場合,政務・儀式を代行した。
2内府(ないふ)とも。近代の宮中にあって天皇の常侍輔弼(ほひつ)にあたる官職。1885年(明治18)12月,内閣制度の確立に際して宮中に設置。初代内大臣は三条実美(さねとみ)。国務について輔弼にあたる国務大臣と異なり,御璽(ぎょじ)・国璽の尚蔵(しょうぞう),常侍輔弼,宮中顧問官の総括(のち宮内大臣の管轄となる)などを職務とした。1908年内大臣府官制施行により詔書・勅書・内廷の文書などの事務が加えられた。はじめは名誉職的官職であったが,1930~40年代には政権交代に際して重臣会議を主宰するなど,天皇の側近として後継首相の推薦に政治的影響力をもった。敗戦後の45年(昭和20)11月に木戸幸一を最後に廃官。
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令外官(りょうげのかん)(令に規定された以外の官)の一つ。また別に明治以後天皇側近の重臣として設けられた官職。大化改新後、藤原鎌足(かまたり)が内臣(うちつおみ)に任ぜられて国家の枢機に参画し、死に臨み内大臣の称を賜り、奈良時代にも数人が内臣から内大臣に任命されたが、900年(昌泰3)醍醐(だいご)天皇の外祖父藤原高藤(たかふじ)が内臣を経ずに内大臣に任ぜられてからは、単に左右大臣に次ぐ大臣の地位となった。唐名は内府(ないふ)。明治維新後いったん廃絶したが、1885年(明治18)内閣制度の発足にあたり、改めて宮中に置かれ、御璽(ぎょじ)・国璽(こくじ)を尚蔵し、常侍輔弼(ほひつ)に任ずべき官職とされた。ただし内実は、太政(だじょう)官制の廃止に伴い、太政大臣三条実美(さねとみ)を優遇するため設けられたもので、実質的な職権はなかったが、のちには桂(かつら)太郎、木戸幸一など天皇側近の重臣として政治上にも影響力をもつようになった。敗戦により廃止。
[橋本義彦]
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…当時の職掌,地位は未詳であるが,輔政の職務であったと思われる。鎌足の死後中絶し,光仁天皇の777年(宝亀8)に内臣藤原良継が,また779年内臣(忠臣)藤原魚名が内大臣に任じられた。天皇が信頼する側近の臣が必要に応じて任命される臨時の大臣であった。…
…また1879年に伊藤博文らは,宮中・府中の別を乱すという理由で,77年より宮内省に設けられた天皇側近の職である侍補等を廃止したり,あるいは参議が宮内卿を兼任しないという原則が主張されたりした。85年の太政官制の廃止,内閣制の創設は,制度的に宮中・府中の別を明確にし,宮内大臣は内閣の外にあるものとされた。しかし,同時に設置された宮中官としての内大臣は,天皇を常時輔弼(ほひつ)する立場から,ときに国政に関与することもあり,1912年の第3次桂太郎内閣成立のように,それまで内大臣兼侍従長であった桂が組閣するという例もあった。…
…勧修寺(かじゆうじ)一流の祖(勧修寺家)。865年(貞観7)蔵人となり,禁色の衣服着用を許され,ついで左近衛少将,兵部大輔等を歴任し,893年(寛平5)女の胤子の生んだ敦仁親王(醍醐天皇)が皇太子となるに及び,翌年従三位に昇り,以後累進して,900年ついに内大臣に任ぜられた。この内大臣は約120年ぶりに復活された令外官(りようげのかん)で,天皇の外祖父優遇の処置であるが,本来の内臣と密着した内大臣とは異なり,たんに右大臣に次ぐ地位と化した。…
※「内大臣」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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