朝廷と幕府間の意思疎通をはかるために置かれた公家の役職。本来,伝奏は武家,寺社等の奏請を伝奏することをつかさどり,室町時代には武家伝奏,寺社伝奏の職掌分化をみた。江戸時代には武家伝奏をとくに要職とし,単に伝奏とも称した。1603年(慶長8)2月12日に広橋兼勝と勧修寺光豊が任命されてから,1867年(慶応3)12月9日に廃止されるまで,江戸時代を通して定員2名。役料は500俵。多くは大納言の中から,学問・文筆の才があり,弁舌がすぐれ正義を行う者が選任された。年頭賀をはじめ朝廷の慶弔に対し将軍が差遣する上使に関すること,その答礼として,または将軍家の慶弔に対する勅使として江戸に下向することなどをはじめ,公武折衝のいっさいに関与したのみならず,天皇・摂関と,堂上・地下(じげ)・寺社との中間にあって,下意を上達し上意を下達するなど,公家社会の中枢に位置した。議奏と併称して〈両役〉といわれ,関白に次ぐ重職とされた。
執筆者:橋本 政宣
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1伝奏とも。室町時代,幕府と朝廷の交渉を仲介した役職。はじめは武家執奏(しっそう)の役割であったが,足利義満期には武家伝奏に引き継がれた。伝奏には日野・広橋・万里小路(までのこうじ)・勧修寺(かじゅうじ)・中山などの諸家が任じられ,1~3人が任にあたった。任命権は朝廷にあったが,実際には幕府・足利将軍の室町殿の意向によって任命され,公家の訴訟をとりついで決裁を仰いだり,室町殿の仰せを奉じた文書である伝奏奉書を発給するなど,室町殿による王朝支配の一翼を担った。しかし,この関係は嘉吉の乱を契機に変化した。
2伝奏とも。江戸時代に幕府と朝廷との交渉にあたった役職。広橋兼勝・勧修寺光豊以後,廷臣2人が常置された。任命権は天皇にあったが,当初は幕府の奏請によって定められた。職掌は,幕府との交渉のほか,関白とともに朝議を取り仕切るというもので,きわめて重職とされた。補任(ぶにん)に際し,京都所司代に血判の誓紙を提出した。
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