イタリア,バロックを代表する建築家,彫刻家,画家,演劇装置家。父ピエトロ・ベルニーニPietro Bernini(1562-1629)はフィレンツェ出身の技巧的マニエリスト。父の仕事先のナポリで生まれ,1605年父とともにローマに出る。父が教皇パウルス5世のためにサンタ・マリア・マッジョーレ教会で働くうち,息子ロレンツォの早熟の才能は教皇とその甥シピオーネ・ボルゲーゼ枢機卿に認められ,19-25年同枢機卿のために働き,若年の傑作群《アポロンとダフネ》《プロセルピナの略奪》《ダビデ》(以上いずれもボルゲーゼ美術館に現存)を制作した。ウルバヌス8世即位とともに教皇庁の主要な芸術事業の主任になり,サン・ピエトロ大聖堂にのこるバルダッキーノ(大天蓋)を制作(1624ころ-33)。インノケンティウス10世,アレクサンデル7世のもとでローマ・カトリック教会の大モニュメントおよびローマの建造物を手がける。建築家としてはサンタンドレア・アル・クイリナーレ(1658-61),バチカン宮殿の大階段スカラ・レジア(1663-66),サン・ピエトロ広場と長円形のコロネード(1656-67)などの作品があり,ナボナ広場(1648-51),バルベリーニ広場(1629-32)など噴水を中心とした都市計画にも非凡な才能を発揮した。またパラッツォ・バルベリーニ大広間の装飾で,画家ピエトロ・ダ・コルトナ,建築装飾家ボロミーニと組んで芸術の諸ジャンルを総合したイリュージョニスティックな空間を創案している。彫刻では,サンタ・マリア・デラ・ビットリア教会の《テレサの法悦》(1645-52),ウルバヌス8世廟(1628-47),アレクサンデル7世廟(1671-78)が知られ,これらはバロック的宗教モニュメントの最高峰を極めたものである。晩年の65年,ルイ14世に招かれてフランスに赴き,同国の17世紀美術に影響を与えた。
ベルニーニの芸術家的気質はルーベンスに最も近く,視覚を主とする感覚に重きを置く近代的芸術様式を創始するのに適していた。彼は感覚的表現の手法を用いて,カトリックの伝統的ドグマと図像とを近代化する使命を果たしたといえよう。また演劇的空間を生み出す卓抜な才能は,ウルバヌス8世のローマ改造計画と結びついてバロック的都市を実現させることとなった。近代的感性と反宗教改革のプロパガンダの結合が生み出した巨匠である。
執筆者:若桑 みどり
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イタリア・バロックを代表する建築家、彫刻家。また画家、劇作家、舞台装置家でもあった。彫刻家を父にナポリで生まれたが、すぐローマに移り、早くから天才を認められた。1629年教皇庁の建築家となり、「ベルニーニはローマを必要とし、ローマはベルニーニを必要とする」ということばを残したウルバヌス8世をはじめ、歴代教皇に重用されてローマ全体を自らの作品で飾ることになる。サン・ピエトロ大聖堂前面広場の壮大な列柱廊(1656~67)、強い透視画的効果によって幻覚を与えるスカラ・レジア(1628~36)、サンタンジェロ橋上などの塑像群、ナボーナ広場などの噴水彫刻はすべてベルニーニの作品である。このほか建築作品にはいくつかの小教会、パラッツォ・バルベリーニの玄関と大階段(1628~38)、バロック宮殿の代表作となってたびたび模倣されることになるパラッツォ・キジ・オデルカルキ(1664起工)などがあり、曲線を生かした大胆な構成ながら簡潔で調和のとれた作風を示している。一方、彫刻では劇的一瞬が生々しいまでの描写で把握される。ローマのサンタ・マリア・デッラ・ビットーリア教会の『聖テレジアの法悦』、同サン・フランチェスコ・ア・リパ教会の『至福者アルベルティーナ』、バルジェッロ美術館の『コンスタンツァ・ボナレッリの肖像』(1635)など傑作は数多い。また、名声を伝え聞いたルイ14世は65年ベルニーニをパリに招き、胸像を制作させたうえ、ルーブル宮東正面の設計を命じるが、これは採用されずに終わった。
[末永 航]
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…これをもってバロックの開始とする。しかし,本来のバロックは,彫刻家,建築家,都市計画家G.L.ベルニーニのダイナミックで演劇的な芸術様式を指す。同じく建築家F.ボロミーニ,G.グアリーニは,曲線にみちた流動的な空間を創造し,建築の概念を革新した。…
… 堂内の美術作品のうち,ブロンズ製ペテロ座像(12世紀),ナビチェラ(小舟)のモザイク画(1298,ジョット),ブロンズ製正面扉(1433‐45,フィラレーテ)等は旧聖堂に由来するが,ミケランジェロの《ピエタ》(1499‐1500)を除く他の主要作品はバロック期以降に属し,近作としては玄関廊左端のマンズー作入口扉(1947)が注目される。教皇の祭壇を覆うブロンズ製大天蓋(1624ころ‐33)および大聖堂最奥に位置するペテロの司教座(1656‐65)は内装彫刻に主導的役割を果たしたベルニーニの代表作であり,前者では4本の巨大なねじれ柱が波うつ傘蓋を支え,その高さはローマ市内の大邸宅パラッツォ・ファルネーゼにほぼ等しい。玄関廊右奥の扉は〈聖なる扉〉とよばれ,25年ごとの聖年に教皇みずからが開閉し,それを通る者は免罪を受けると言い伝えられる。…
…バチカン市国のサン・ピエトロ大聖堂前にあって,約10万人を収容するといわれる大広場。教皇アレクサンデル7世の発案により,1656‐67年にベルニーニが建設した長円形の大歩廊(コロネード)で囲まれ,その短軸上に広場への入口と大聖堂正面への大階段,長軸上に二つの噴水が位置し,中央にオベリスクが立つ。旧聖堂脇にあったこの古代エジプトのオベリスクは,16世紀後半に技師ドメニコ・フォンタナが900人の職人と140頭の馬を使い4ヵ月かかって移設したもの。…
…カトルメール・ド・カンシーをはじめとするフランス18世紀の美術批評家は,アカデミズムの理念に立っており,またイタリアのミリーツィアは,古典古代とルネサンスの芸術を最高の規範とし17世紀の芸術を堕落と考えたウィンケルマンの思想に傾倒した新古典主義の批評家であった。このように美術批評におけるバロック概念は,古典様式と明白に対立した17世紀のベルニーニ,ピエトロ・ダ・コルトナらの芸術を否定する,18世紀イタリアとフランスの新古典主義的批評家たちによって形成されたものである。これが,今日多様化しているバロック概念の原点である。…
… 彫刻は,浮彫の芸術的魅力が表面にあたる光の生み出す微妙な明暗の効果に負うところ大であるのを認めるにせよ,あくまでも外在的なものとしての光とのかかわりしかもたない。しかしその中でもバロックの彫刻は,ベルニーニ作の《聖テレサの法悦》のように,聖性の暗示,劇的効果の達成のため,周囲の現実の光を十二分に活用している。 最後に日本と中国について付言すれば,仏画や水墨山水画の場合,対象を隈取って立体感を暗示する一種の陰影法があるものの,具体的光源は想定されておらず,むしろ西洋絵画におけるような光の表現がないことが日本・中国美術の一特色であろう。…
…ベルサイユ宮殿の全体構想の雄大さは,たしかにバロック的感覚に通ずるものがあるが,有名な〈鏡の間〉のある庭に面した正面部のみごとに秩序づけられた構成は,ボロミーニやペッペルマンの果てしなく増殖するようなダイナミックな正面部とはまったく異質のものである。ルイ14世の時代に,バロックの王者としてヨーロッパ中に君臨していたイタリアの大家ベルニーニを招いてルーブル宮殿東正面の設計を依頼しながら,結局そのせっかくのベルニーニの案を採用せず,古典主義的なペローの列柱構成を実現させたのも,同様の合理的秩序感覚の表れにほかならない。 このような厳しい秩序への意志は,建築のみにかぎらず,造形美術のあらゆる分野に一貫して見られるきわめてフランス的特徴である。…
…ベルニーニと並んでイタリア・バロック盛期を代表する大建築家。ベルニーニと彼は,その生涯,気質から作品の傾向にいたるまでまったく対照的であり,互いに相手を快く思わない同世代のライバルであった。…
…貴族となるとともに,63年にゴブラン織製作所の総指揮にあたり,翌年〈王の首席画家〉となった。65年,当時イタリア最高の彫刻家・建築家ベルニーニがパリにやって来たが,ル・ブランはベルニーニのルーブル宮殿設計案に対する妨害や,その仕事への圧迫を加えたとされる。いずれにしても,このイタリア彫刻家の力強い〈バロック〉様式に対して,彼の折衷的な〈古典様式〉は,共鳴音を奏でたとは考えられない。…
※「ベルニーニ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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