徳瀬村
とくぜむら
[現在地名]春野町砂川
不動川の上流域右岸、高塚山の南斜面の山腹にある。寛永一八年(一六四一)の周知郡犬居及内御地詰帳(春野町役場蔵)の表紙には徳瀬村・葛沢村と併記されている。葛沢は永禄一二年(一五六九)閏五月二〇日の徳川家康判物写(掛川誌稿)には、尾上彦十郎(正長)に宛行われた「犬居之内給分方本知」の一所としてみえ、熊切のうちに含まれていた。江戸初期から幕府領、享保郷村高帳では掛川藩預所。その後幕府代官支配に復した(「春野町史」など)。正保郷帳には徳瀬村とあり、永四貫五〇〇文。
徳瀬村
とくぜむら
[現在地名]野津町西畑 風瀬
赤峯村の南西、北流する三重川に吉田川が合流する地点付近の南側にある。南は風瀬村、西を三重川が流れる。慶長二年(一五九七)の三重郷検地帳写(渡辺家文書)には「徳嶺村」が森迫村(現三重町)と一括された一冊が含まれ、この「徳嶺村」が当村にあたると推定される。村位は下。同一一年の惣御高頭御帳に村名がみえ、高九石余。下ノ村組に属した。正保二年(一六四五)の稲葉能登守知行高付帳によれば田方三石余・畑方六石余、日損所と注記される。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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