砂川村(読み)すながわむら

日本歴史地名大系 「砂川村」の解説

砂川村
すながわむら

[現在地名]立川市砂川町一―八丁目・柏町かしわちよう一―五丁目・幸町さいわいちよう一―六丁目・高松町たかまつちよう一―三丁目・泉町いずみちよう上砂町かみすなちよう一―八丁目・一番町いちばんちよう一―六丁目など

柴崎しばさき村の北に位置し、東は砂川新田、さらにその東に砂川前すながわまえ新田がある。村内を玉川上水が東流し、これと交差して東西に五日市街道が通る。村山むらやまきし(現武蔵村山市)の村野氏によって近世前期に開発された土豪請負新田である(風土記稿)。村名は残堀ざんぼり川の別称から付けられたと伝える。開発は慶長一四年(一六〇九)頃から始められていたようだが(同書)、寛永四年(一六二七)頃に本格化したと伝えられる。狭山丘陵の南西部から五日市街道に向かって流れる残堀川の流域(かつての砂川三番・四番、現砂川町一―三丁目・同五丁目付近)を中心に開発が進められたが、明暦三年(一六五七)玉川上水から砂川分水が引かれて五日市街道沿いに耕地が拡大していった(「立川市史」など)


砂川村
うるかむら

[現在地名]城辺町砂川すなかわ

現城辺町の南西部に位置し、南東は友利とうむ村、西は新里あらだてい(現上野村)に接し、南部は海に面する。砂川うるか間切に属した。雍正旧記の「弘治年間之頃同人嶋の主成候付あやこ」(同人とは仲宗根豊見親)に砂川大殿がみえる。同書の「同人八重山入の時あやこ」にみえる砂川の神女もしくは英雄と思われる「砂川あほかめつゝの主(砂川アフガマ頂の主)」は名高い女性であったようで、「東川根森川越」(宮古島の歌)や「金志川金盛のアーグ」にも登場する。とくに後者では金盛を誘惑する積極的な人物として謡われている。「バシクイのバソ」では「うるか とぅイ うふや(砂川を治めている大家)」が「かっふさ とぅイ うふや(カッフサを治める大家)」と対語になっている。また狩俣かまたに伝えるクイチャーアーグ「砂川ブナ」(平良市史)に、アタラマ(地名か)のミャキミボス大按司に見初められた美女砂川ブナが登場し、「仲宗根親」には「砂川むまれぶなりがま まやむまれふなりがま(砂川生れのブナリガマ、真屋生れのブナリガマ)」という美女がみえる。


砂川村
すながわむら

[現在地名]姫路市豊富町御蔭とよとみちようみかげ

曾坂そさか村の東に位置し、中播丘陵西端の山麓といち川の支流神谷こだに川の扇状地に立地する。天正九年(一五八一)三月二八日の寺沢広政折紙写(高馬文書)に「砂川」とみえ、藪田やぶた村の百姓中が藪田山を砂川・曾坂・藪田三ヵ村の入会地とするよう命じられている。慶長六年(一六〇一)乾平右衛門は姫路城主池田輝政から砂川村の三四四石余など都合六〇〇石を与えられている(「乾徳家譜」鳥取県立博物館蔵)。慶長国絵図にも村名がみえる。正保郷帳には砂河村とあり、田方二五九石余・畑方一八石余。元禄郷帳では高一一四石余。


砂川村
すながわむら

[現在地名]利根村砂川

多那たな村の東方、根利ねり川の支流赤城川沿いに位置し、勢多せた郡に属した。南は赤城山原野に続く。赤城川の谷をさかのぼって赤城山大沼おのに至る道があり、その途中に五輪ごりん峠がある。「加沢記」に天正九年(一五八一)のこととして、真田氏に追われる沼田平八郎一行が「南越生の討手を差向られけるに皆々五輪峠なみての峯を越落行ける、石橋父子退をくれて砂川辺滝坂と云所にて」討取られたという話が載る。「南越生」は当地の字南越生瀬なごうぜのこと。寛文郷帳によると田方二斗余・畑方五一石余、沼田藩領。天和元年(一六八一)の郷村品々記録(小林文書)では高三一一石余。貞享二年(一六八五)の旧真田領村高書上控では高一七石余。


砂川村
すながわむら

明治三六年(一九〇三)八月から大正一二年(一九二三)まで存続した空知郡の村で、空知郡奈江なえ村を改称して成立。明治三五年三井物産会社が砂川木挽工場を建設し、翌三六年から操業を開始して同三九年にはナラ材を欧州に輸出するなど国内屈指の製材工場となった(私たちの砂川市史)。同年の砂川市街は戸数五九〇・人口二千九九〇余を数え、商店三〇余戸のほか村役場・郵便局・巡査部長派出所・砂川尋常高等小学校などが集中し(殖民公報)、木材流送集散地としても活況を呈した。


砂川村
すながわむら

[現在地名]松橋町砂川

東は新田出しんでんで(現小川町)、南は砂川を挟んで住吉すみよし(現小川町)、北は浅川あさがわ村に接し、西は八代海に面する。嘉永五年(一八五二)干拓され、砂川新地とよばれた。明治初年の「郡村誌」によると田四二町一反九畝余・畑一〇九町三反五畝余・宅地八町三反一畝余、戸数一一九、男三二六・女三二三、牛三・馬五一とあり、旧豊川とよかわ村では最大の村であった。


砂川村
すながわむら

[現在地名]朝日村砂川

大針おおばり村の北、大鳥おおとり川の左岸に位置し、集落の中央を大鳥街道が南北に走る。地内に中世の砂川館跡がある。元和八年(一六二二)の酒井氏知行目録では戸沢村とあり、高一〇三石余。正保郷帳に村名がみえ、田高一六九石余・畑高三石余。元禄九年(一六九六)の家数三五・人数三一一(「本郷組宗旨寺判指上帳」鶴岡市郷土資料館蔵)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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