日本歴史地名大系 「志原村」の解説 志原村しわらむら 長崎県:壱岐郡郷ノ浦町志原村[現在地名]郷ノ浦町志原南触(しわらみなみふれ)・志原西触(しわらにしふれ)、石田(いしだ)町久喜触(くきふれ)武生水(むしようず)村の東に位置し、南西に岳(たけ)ノ辻(つじ)がある。北東に枝郷の大原(たいばる)村がある。中世は志原郷などとみえる。「海東諸国紀」に壱岐一三里の一つとして記される「阿里多五十余戸」は国分(こくぶ)村の当田(とうだ)村(現芦辺町)という説があるが(長崎県史)、志原村内の有田(ありた)村に比定されるであろう(壱岐国史)。西部の帯田(おびた)城跡に堀・石垣などの遺構があり、東西二八三間・南北二三一間、周囲八一三間の規模で、永禄年間(一五五八―七〇)より日高信助が在城したという(壱岐名勝図誌)。豊臣秀吉による朝鮮半島出兵では壱岐城代の松浦信実が率いる軍勢に当地の日高信助・野本尚義らがいたという(壱岐国続風土記)。 志原村しわらむら 三重県:南牟婁郡御浜町志原村[現在地名]御浜町志原神木(こうのぎ)村の南東にある。志原川は釜脇(かまわき)沼に入り、有馬(ありま)(現熊野市)より流れる産田(うぶた)川と合して熊野灘に注ぐ。村名は南北朝初期と考えられる熊野山新宮神官等申状案(熊野速玉大社古文書古記録)に「有馬庄内志原村住人左衛門次郎」と記されている。新宮領で有馬組に属する。近世初期の家数三三(「新宮藩御勘定方旧記」和歌山県史近世史料編)、後期は五〇(紀州新宮領分見聞記)となっている。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by