南牟婁郡(読み)みなみむろぐん

日本歴史地名大系 「南牟婁郡」の解説

南牟婁郡
みなみむろぐん

面積:二八二・四六平方キロ
御浜みはま町・紀和きわ町・紀宝きほう町・鵜殿うどの

三重県の最南部にある。東は熊野灘に面し、西は北山川に、南は熊野川に接する。沿海部は冬季積雪をみない温暖地帯であるが、北山川に臨む山間部は冬季寒冷のきびしい地帯である。当郡の海岸線に沿う一帯は、その暖地性を活用して蜜柑栽培が盛んとなり「南紀蜜柑」として、全国の市場に出荷している。

〔古代・中世〕

七里御浜しちりみはま一帯には縄文から土師器に至る遺跡が多い。古代には当郡域は紀伊国牟婁郡神戸かんべ郷に属したと考えられ、同郷は熊野の神領とみられる。

鎌倉時代より室町時代の頃は郡内各地に豪族が割拠し、なかでも入鹿・尾呂志の両氏が強大であった。入鹿氏は京より来住したと伝え、小栗須こぐるす(現紀和町)に城を構え、尾呂志氏は上野うわの(現御浜町)に居城した。また熊野新宮(熊野速玉大社)に近い当地方には、現紀宝町を中心とする地にその神領があり、神官の居住も伝えられる。応永(一三九四―一四二八)頃、有馬ありま(現熊野市)に本拠を置いて一帯を支配した有馬氏は熊野別当家の出自といわれ、鵜殿に水軍を擁して勢威を振るった鵜殿氏も同様の出自を伝える。天正初年、同じく熊野神官の出という堀内氏善が新宮より勢力を伸ばし、同一〇年(一五八二)荷坂にざか(現北牟婁郡紀伊長島町)までの一帯をその支配下に組入れた。

天正一三年紀州を平定した豊臣秀吉はやがて検地の実施を命ずるが、それに反対した北山地方で一揆が起こる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報