志楽郷
しらくごう
藤原宮出土木簡に「丹□国加佐郡白薬里大贄久己利魚
一斗五升和銅二年四月」とみえる「白薬里」は当郷にかかわるか。「和名抄」に志楽郷があり、高山寺本は「之良久」と訓ずる。
古代の志楽郷については他に史料の所見がなく不詳だが、当郷域には平治元年(一一五九)閏五月日付宝荘厳院領荘園注文(東寺百合文書)に初見する志楽庄が立荘されている。
郷域は志楽庄域との関係から、現舞鶴市の東北部、南限を若狭街道が通る志楽谷とし、これ以北の地域と考えられる。東部は青葉山(約六九九メートル)、北部に空山(約五五〇メートル)・大道山(約五五六メートル)が連なり、北からほぼ東西に河辺・朝来・志楽の三つの谷が走る山がちの地である。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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