志楽庄(読み)しらくのしよう

日本歴史地名大系 「志楽庄」の解説

志楽庄
しらくのしよう

若狭・丹後の国境付近に源を発して西流し、舞鶴湾に注ぐ三本の河川、北から河辺かわなべ川・朝来あせく川・志楽川の流域、志楽郷(和名抄)の地に成立した荘園。その内部には、おそくとも南北朝期に、それぞれの河川沿いの三村、河部(辺)村・朝来村春日部かすかべ村が成立していた。

荘名は、平治元年(一一五九)閏五月付の宝荘厳院領荘園注文(東寺百合文書)

<資料は省略されています>

とみえるのが早く、宝荘厳ほうしようごん(跡地は現京都市左京区)領であったことがわかる。宝荘厳院は長承元年(一一三二)に創建された鳥羽上皇の御願寺。

以後鎌倉期には「吾妻鏡」の建久六年(一一九五)八月六日条に次のような記事がある。

<資料は省略されています>

これによれば、志楽庄は伊禰いね(現与謝郡伊根町)と領家が共通しており、後藤基清が地頭職に補任されていた。後藤氏はこの地方一帯勢力を振るった幕府御家人であり、志楽庄に対しても濫妨狼藉を働いていたようである。

また承久元年(一二一九)九月二三日付の安永吉永田地寄進状写(金剛院文書)によれば、志楽庄安永名内の田地(在所吉津坂村。現字吉坂に比定される)が、吉永から西願せいがん(跡地は現字吉坂)に寄進されている。後述するように、この時、志楽庄内包正かねまさ名田の一部も西願寺に寄進されており(同年同月日付「凡海是包等連署田畠寄進状案」梅垣西浦文書)、吉永による名田寄進はこれと軌を一にしたものと考えられる。

南北朝に入って、荘内朝来村・河部村・春日部村のそれぞれにつき、次のような文書がある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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