日本歴史地名大系 「忠岡村」の解説
忠岡村
ただおかむら
慶長九年(一六〇四)の検地高と思われる古検高は七八八石余(麻野家文書)、延宝七年(一六七九)の検地帳(同文書)では一千一〇三石余に増加。天正一三年(一五八五)の豊臣秀吉の紀州根来・雑賀攻め以来、秀吉の直轄地となったとみられる。慶長二〇年大坂夏の陣による豊臣氏滅亡に伴って徳川幕府領となった。貞享三年(一六八六)武蔵岩槻藩領となったが正徳元年(一七一一)再び幕府領に復し、延享四年(一七四七)より、村高のうち一千一石余が一橋領、一一三石余が幕府領という相給となった。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報