日本大百科全書(ニッポニカ) 「岸和田藩」の意味・わかりやすい解説
岸和田藩
きしわだはん
江戸時代、和泉(いずみ)国(大阪府)の中央部を領有した藩。1585年(天正13)以来小出(こいで)氏(3万石)の所領であったが、1619年(元和5)吉英(よしひさ)が但馬出石(たじまいずし)に移り、かわって松平(松井)康重(やすしげ)(5万石)が入封、2割の増高を上申して許され6万石となった。康重のあと康映(やすてる)が襲封したが、1640年(寛永17)播磨(はりま)山崎へ転出。摂津高槻(たかつき)から岡部宣勝(のぶかつ)(6万石)が入封した。1661年(寛文1)2代行隆(ゆきたか)襲封のとき、弟の高成(たかなり)、豊明(とよあき)にそれぞれ5000石、2000石を分与し、5万3000石となる。以後、長泰(ながやす)、長敬(ながたか)、長著(ながあきら)、長住(ながすみ)、長修(ながなお)、長備(ながとも)、長慎(ながちか)、長和(ながより)、長発(ながゆき)、長寛(ながひろ)、長職(ながもと)と13代続いて在封、明治維新を迎えた。この間、松平氏のときの増高が貢租負担の過重となり、不満を抱いた領内108か村の農民らは、岡部宣勝入国のとき城下に押し寄せ、新藩主に強訴(ごうそ)を企てた。宣勝は3000石を減額して一揆(いっき)を未然に防いだ。岸和田藩の税率は、全国的にもその類例をみないほどの高率で、慶長(けいちょう)検地の本高に対して8~9割が普通であり、10割を超過する村々も少なくない。しかし農法の改良・進歩による生産の向上と、大坂に近く商品作物の栽培が盛んであったため、実収は検地帳の高をはるかに上回っていた。藩財政は、軍備や天災復旧が重なり、廃藩まで窮乏を続けた。1852年(嘉永5)に教学所を改修して講習館と名づけ、領民の就学を許し、66年(慶応2)藩校修武館を開設。明治になり、岸和田県から堺(さかい)県を経て大阪府に入る。
[藤本 篤]
『『新編物語藩史 第8巻』(1977・新人物往来社)』▽『『貝塚市史』全3巻(1955~58・貝塚市)』