日本歴史地名大系 「泉北郡」の解説 泉北郡せんぼくぐん 面積:三・五六平方キロ忠岡(ただおか)町明治二九年(一八九六)かつての和泉国四郡のうち北の大鳥・和泉両郡が合併して成立した郡。郡名は旧和泉国の北部に位置したことによる。現在は忠岡町一町のみ。〔古代・中世〕原始時代の遺物は発見されていないが条里制の遺称が多く残る。東部の高月(たかつき)・北出(きたいで)付近は「和名抄」和泉郡の軽部(かるべ)郷に含まれたと考えられ、西部の忠岡一帯は皇室領宇多(うだ)庄(中心は現泉大津市)に属したとみられる。高月には平安時代の瓦が出土する高月寺跡がある。〔近世〕天正一三年(一五八五)の豊臣秀吉の紀州根来・雑賀攻めにより、和泉国は秀吉の支配下となった。岸和田(現岸和田市)に小出氏が封ぜられ所領を与えられたが、残りの地域は秀吉直轄地であった。当郡域は泉郡忠岡・下馬瀬(しもまぜ)・上馬瀬・北出・高月五ヵ村からなるがいずれも小出領とはならなかったので、秀吉蔵入地として支配を受けたはずである。慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原の戦後は豊臣秀頼の所領に引継がれたと思われるが、同二〇年大坂夏の陣によって豊臣氏は滅亡し、以後徳川幕府領となった。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by