日本歴史地名大系 「恒久村」の解説 恒久村つねひさむら 宮崎県:宮崎市恒久村[現在地名]宮崎市恒久・恒久南(つねひさみなみ)・城(じよう)ヶ崎(さき)・大淀(おおよど)二―四丁目・東大淀(ひがしおおよど)一―二丁目・中村東(なかむらひがし)三丁目・天満(てんまん)三丁目・宮の元町(みやのもとまち)・月見(つきみ)ヶ丘(おか)一―二丁目・同四―五丁目・大坪東(おおつぼひがし)三丁目・大坪西(おおつぼにし)一―二丁目宮崎郡古城(ふるじよう)村の東、同郡源藤(げんどう)村の北に位置し、那珂郡に属する。北は大淀川を挟んで宮崎郡上別府(かみべつぷ)村・那珂郡吉(よし)村と当村枝村の瀬頭(せがしら)村。大淀川沿いには城ヶ崎町があり、交易の拠点として栄えた。同町をほぼ東西に鵜戸(うど)街道が通り、村の西部をほぼ南北に飫肥(おび)街道が通る。元禄国絵図に「恒久村之内」として曾井(そい)村がみえる。建久図田帳に八条女院領国富(くどみ)庄の一円庄として「左右恒久(さうつねひさ)」一〇〇町とみえ、宮崎郡に属し、地頭は平五(実名不詳)。永和(一三七五―七九)の頃の地頭は伊東祐重で、以後代々伊東氏が地頭職を勤めた(日向記)。文安元年(一四四四)二月二六日の恒久浮免分坪付写(小山田文書)には恒久浮免分として諏訪内二反半など六ヵ所がみえる。弘治二年(一五五六)六月吉日の土田帳写(予章館文書)には妻万(つま)宮(現西都市都萬神社)領の田数二町六反のうちに上恒久三反がみえる。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by