日本歴史地名大系 「城ヶ崎町」の解説 城ヶ崎町じようがさきまち 宮崎県:宮崎市城ヶ崎町[現在地名]宮崎市城ヶ崎東流する大淀川河口近くの右岸にある。恒久(つねひさ)村内の枝町であった(「万勤書」山之城家文書)。大淀川河口の田吉(たよし)村内赤江(あかえ)湊に隣接し交易の拠点として栄え、俳壇など町人文化が隆盛した。対岸瀬頭(せがしら)村への渡場がある。寛文二年(一六六二)九月の大地震では禿家一九軒のほか土蔵二軒が被害にあっている(「万覚」湯地家文書)。寛政四年(一七九二)六月一三日、高山彦九郎は赤江町から板橋を渡り、当町の太田文平宅を訪れており、「筑紫日記」に「此所二百軒斗り」と記している。文化七年(一八一〇)四月二二日、江田(えだ)村を出立した伊能忠敬一行は新別府(しんびゆう)村・吉(よし)村などを経て当町付近まで測量し、当町の梅香屋文平宅を本陣に、和泉屋善右衛門宅を脇宿として止宿しており、到着後、飫肥藩主伊東氏から杉原紙を贈られている(伊能忠敬測量日記)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by