成枝名(読み)なりえだみよう

日本歴史地名大系 「成枝名」の解説

成枝名
なりえだみよう

薩摩郡のうちの一名。薩摩国建久図田帳には薩摩郡三五一町三反のうちに成枝八六町があげられ、郡司忠友とある。忠友は薩摩郡司平忠直の子。なお「宮之城記」所収の建久四年(一一九三)薩摩国諸郡注文に、薩摩郡分六名のうちに成枝名がある。寛喜三年(一二三一)二月一九日の平忠友譲状(延時文書)に、子の平忠富に譲渡された成枝名内水田として大賀おおが里・平礼石ひられいし里・瓦田かわらだ里・羽島はしま浦計一〇町があげられ、次に成枝名内村々畠地として永野ながの村・久美野くみの牟木むぎ浦・栗栖くりす山・平礼石居薗・大平おおひら薗などがあげられている。これらの地名から考えて現川内市隈之城くまのじよう町・中福良なかふくら町・宮崎みやざき町・尾白江おじろえ町、現串木野市羽島などが成枝名に含まれていたと考えられる。忠直は成枝に居住し、その子忠友も薩摩郡司を継承し、成枝名主であったことから、成枝名が薩摩氏の本拠地であったと思われる(「忠直譜」川内市史所収中俣氏所蔵系図)。寛元二年(一二四四)六月二一日の忠直の子僧忠兼申状(旧記雑録)に「富永成求北両名、雖為公田、依為各別之名」とみえる「成求北」名は当名であろうか。同四年一二月一一日には前掲寛喜三年の平忠友譲状と同日の忠友譲状などに任せ、忠友の子薩摩平三(実名不詳、忠茂か)に薩摩郡郡司職、成枝名内田などが鎌倉幕府により安堵されている(「関東御教書」延時文書)。だが当名は忠直の代から分割され、各々継承されていた。宝治三年(一二四九)二月一四日には忠友の妹くんあみたふつ(をゝくまの太子)から、子のをゝくまのみちひさに「なりえたのみやうのうちかミこしき」一ヵ所が譲られ(「をゝくまの太子譲状」同文書)、同所「かミこしきつ」五反・屋敷は建長五年(一二五三)一一月二六日、みちひさから「むとへのをゝいこ」に譲渡された(「をゝくまのみちひさ譲状」同文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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