手庄(読み)てのしよう

日本歴史地名大系 「手庄」の解説

手庄
てのしよう

和名抄」下道郡弟翳郷の郷名を継ぐものか。遺称地・比定地は不明であるが、明治二二年(一八八九)現川上町北東部に領家りようけ村・地頭じとう村・三沢みさわ村・七地ななち村などが合併して手荘てのしよう村が成立、あるいは同村域の領家川下流域一帯に推定されるか。また地頭村領家村は下地中分を伝えるものであろうか。室町中期以後に京都相国しようこく寺領としてみえる。文明一四年(一四八二)八月一三日の新見にいみ庄代官の山田具忠書状(東寺百合文書)によると、相国寺領の当庄庄主が戦乱に巻込まれ六月に殺されている。長享元年(一四八七)以前は毎年二三〇貫文が寺納され、昨年は不熟のために二〇〇貫文が寺納という。同年に代官妙厳と下代官高橋兵庫助との間で相論が起こっている(「蔭涼軒日録」長享元年一〇月二六日条)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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