領家村(読み)りようけむら

日本歴史地名大系 「領家村」の解説

領家村
りようけむら

[現在地名]水窪町奥領家おくりようけ佐久間さくま町奥領家

観音かんのん(一四一八・二メートル)の南部、西は天竜川左岸より、東は白倉しらくら川、水窪川(奥の山川)右岸に至る一帯を占める。集落は南部の比較的平坦地に形成され、谷間にわずかに家居が散在する。南から北上してきた秋葉街道(信州街道)青崩あおくずれ峠を越え信濃国伊那いな八重河内やえごうち(現長野県南信濃村)へ至り、南西はホウジ峠を越え佐久間村(現佐久間町)奥山おくやま領家・奥領家とも称され、村名は中世下地中分により二分された際領家方に属したことに由来するとされる。「遠江国風土記伝」は里として大裏だいり大門みかと政所まんどころ朝臣あそん小畑おばた西浦にしうれ沼田ぬた(野田)沢井さわい芋保利いもほり(芋堀)水久保みさくぼ神原かんばら草木くさぎ・戸口をあげる。天保国絵図には領家村のうちとして小畑・池島いけじま塩沢しおざわ村が描かれる。南端の野田ぬた(のた)芋堀いもほり・沢井(現佐久間町)の集落はかめこう(八八〇・六メートル)南西、ホウジ峠の山腹緩斜面に散在している。当村から国境の青崩峠を越え信濃国和田わだ(現南信濃村)までは七里二四町、塩沢から北方の境之沢(現河内川)を越え信濃国鶯巣うぐす(現長野県天龍村)までは二里一八町。北部の山境は不分明であった(天保国絵図)

正保郷帳に領家村とあり、永九五貫四八七文、幕府領。うち本社大明神領一貫文・新社大明神領一貫文・永福ようふく(現曹洞宗)領五〇〇文、檜雑木はへ山藪ありの注記がある。

領家村
りようけむら

[現在地名]川口市領家一―五丁目・東領家ひがしりようけ一―五丁目・河原町かわらちよう元郷もとごう四―六丁目・弥平やへい二丁目・同四丁目

元郷村の東に位置し、平坦な村。南は荒川を挟んで豊島としましも(現東京都北区)。田園簿では田五三七石余・畑一五三石余。江戸時代を通じて幕府領であったと考えられる(田園簿・改革組合取調書など)。元禄一〇年(一六九七)の検地帳(矢作家文書)では高五八九石余、うち田二八九石余・畑屋敷二九九石余で、反別田五三町余・畑五六町七反余・屋敷一町六反余。元文三年(一七三八)新田検地(同文書)によると三四石余(大部分が畑)が高入れされている。

領家村
りようけむら

[現在地名]川上町領家

北流する領家川両岸と成羽なりわ川と同川の合流地点南岸を村域とし、東は臘数しわす村、南は三沢みさわ村・地頭じとう村、西は七地ななち村。北は成羽川を挟んで布瀬ふせ(現備中町)で渡しが置かれた。中世には庄に含まれたとみられる。小字にも庄官を想起させる九門くもん(公文)がある(「土地台帳」川上町役場蔵)。寛永備中国絵図によると高三三八石余で松山藩領、正保郷帳では幕府領、枝村に小此おごろ(現尾頃)が載る。文政一一年(一八二八)の高名寄帳(山本文書)によると津山藩預所、「川上郡誌」では嘉永六年(一八五三)以降備後福山藩領となり、幕末に至る。

領家村
りようけむら

[現在地名]上尾市領家・中分なかぶん一―二丁目・同四丁目・藤波ふじなみ一―二丁目

畔吉あぜよし村の北にあり、西は荒川を隔てて比企郡出丸中郷でまるなかごう(現川島町)、北は悪水路川を境に川田谷かわたや(現桶川市)。足立郡石戸いしと領に属する(風土記稿)。天正一八年(一五九〇)九月七日の旗本牧野半右衛門(康成)に宛てられた伊奈忠次知行書立(「牧野系譜」京都府舞鶴市立西図書館蔵)に「領家」とある。石戸領領家とも、畔吉村から分立したことから畔吉領家とも呼称される。

領家村
りようけむら

[現在地名]春野町領家

堀之内ほりのうち村の南西、気田けた川の盆地最南端にあり、南流する気田川が蛇行しながら大きく西へ向きを変える地点に位置する。領家の地名は山香やまか庄の領主側の領域をさすとされる(掛川誌稿)。天正三年(一五七五)七月一三日の徳川家康朱印状(秋葉神社文書)の宛所に「領家郷」とみえ、同郷百姓らに対し、郷中放火・濫妨狼藉が禁じられた。また同一七年一一月の六所大明神社棟札(六所神社蔵)の銘には「遠江国周智郡犬居郷下之領家六所之大明神」とあり、上・下に分れていたことがうかがえる。

領家村
りようけむら

[現在地名]滑川市領家町

早月はやつき川と上市かみいち川によって形成された複合扇状地の末端部に位置し、東は田中たなか村、北は富山湾に臨む。北東の滑川町からの北陸街道は当村の海岸に沿って西の高月たかつき村へ至る。建長八年(一二五六)堀江ほりえ庄三ヵ村が領家方・地頭方に中分されたが、当村名はその領家方にかかわるものとみられる。寛文一〇年(一六七〇)の村御印によると草高二二六石、免四ツ六歩(三箇国高物成帳)

領家村
りようけむら

[現在地名]阿南市領家町

石塚いしづか村の東に位置し、北は桑野くわの川を挟んで横見よこみ村。天神原てんじんばらとよばれる河湊があり、支落としてなか村がある(阿波志)。慶長二年(一五九七)の分限帳では「天神・中村」を含めた那東なとう郡領家二六二石余が細山主水佐(賀島政慶)の知行。同八年には新開検地が行われている(「領家村新開検地帳写」阿南市役所文書)。慶長期のものと推定される国絵図には「竜うけ」、寛永(一六二四―四四)前期のものと推定される国絵図には「里やうて村」と記される。正保国絵図では高一八〇石余。寛文四年(一六六四)郷村高辻帳では田方一四二石余・畠方三七石余。

領家村
りようけむら

[現在地名]久米町領家

東は宮尾みやお村、南は久米川南くめかわみなみ村、西は中北下なかぎたしも村・南方中みなみかたなか村。北側に丘陵を控え、前方に久米川が流れ、平野部が多い。正保郷帳では田方五一三石余・畑方四三石余。元禄一〇年(一六九七)美作国郡村高辻帳の改出高一六四石余・開高四七石余。「作陽誌」の戸口は五四軒・二七三人。天保九年(一八三八)津山藩領郡村記録では家数七四・人数二七二、馬二、牛三七。元禄一一年幕府領となり、延享二年(一七四五)播磨三日月藩預、文化一二年(一八一五)出羽上山藩領、文政元年(一八一八)幕府領で播磨龍野藩預、天保九年津山藩領となる(「美作国郷村支配記」など)

領家村
りようけむら

[現在地名]大垣市領家町・三津屋町みつやちよう西之川町にしのかわちよう

揖斐いび川右岸の平坦地、大垣輪中の北部に位置し、南西は中野なかの村。村の北端を中山道が通る。村名は郡司の大領・少領などが住んだ家の跡に由来し、中川なかがわ(中河御厨)に属する(新撰美濃志)。領下とも記し、枝郷に三ッ屋・西ノ川がある(明治大学刑事博物館蔵元禄郷帳)。江戸時代を通じて大垣藩領。慶長郷帳に村名がみえ、村高一千九石余、元和二年(一六一六)の村高領知改帳では領下村と記す。

領家村
りようけむら

[現在地名]津幡町領家

能瀬のせ川下流右岸に位置。南は能瀬村。津田鳳卿の「遊三国嶺記」に「憩領家茶店、足利氏中葉、富樫泰高為領家地頭職、居此」とあり、富樫(英田)氏が居住したと伝承されている。中世当地一帯に成立していた英田あがた保の領家は梶井門跡相承寺院の比叡山横川恵心よかわえしん(現滋賀県大津市)であったが、この伝承は同保が守護請で富樫氏に委ねられていたことによるのであろう。

領家村
りようけむら

[現在地名]浦和市大久保領家おおくぼりようけ

下大久保しもおおくぼ村の北に位置し、荒川が形成した自然堤防上に集落がある。西境をかも川が流れ、対岸は五関ごせき村。中世には大窪おおくぼ郷に属した。同郷は応安二年(一三六九)以前に下地中分が行われており(同年七月二八日「大窪郷地頭方三分一方田畠注文」正木文書)、当地は領家方に属した地域と思われる。田園簿では高一五一石余、反別田七町五反余・畑二五町二反余で、旗本朝岡領。ほかに大泉だいせん院領五石があった。国立史料館本元禄郷帳では幕府領で、同領のまま幕末に至ったと考えられる(「風土記稿」・改革組合取調書など)

領家村
りようけむら

[現在地名]川之江市川滝町領家かわたきちようりようけ

現川之江市の南東部、法皇ほうおう山脈嶺北の山腹にある。東は奥下山おくしもやま村、南は上山かみやま村・馬立うまたて(現宇摩郡新宮村)、西は半田はんだ村・奥下山村、北は奥下山村に接する。集落は渓谷・山腹に散在する。宇摩うま山田やまだ郷に属したとされる。領家の地名は当地方にあった荘園に由来するとする説もあるが不詳。

慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の宇摩郡の項に「高百九拾弐石八斗壱升七合 領家村 柴山有」とある。

領家村
りようけむら

[現在地名]会津高田町藤家館ふじいたて

藤川ふじかわ川左岸にあり、北は富岡とみおか村。本村の南東三町に端村なか村、本村の東の藤田ふじた村を越えて端村沖館おきのたて、南の小川窪おがわくぼ村を越えて端村小川があり、沖館の東七町に小名成田なりたがある。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録では高五八一石余。橋爪組に属し、文化一五年(一八一八)の村日記では高七〇六石余。化政期の家数は本村二二、成田五・中村三・沖館一五・小川一七(新編会津風土記)。明治四年(一八七一)の家数二三(寺一)・人数一三二(人員録)。同八年藤田村・沖館分と合併して藤家館村となる。

領家村
りようけむら

[現在地名]室戸市領家

津呂つろ村の北、南流する室津むろつ川が西に流れを転じる辺りの東南岸山中に位置する。上流および対岸は室津村。最御崎ほつみさき(東寺)から北へ尾根伝いにも道があり、古くから同寺領室津庄に含まれた。地名のごとく領家である最御崎寺と深い関係のあった地で、近くに蔵戸くろどの地名も残る。室町時代から戦国期にかけて地頭室津(惟宗)氏が勢力を伸ばした後も寺領として残った地であろう。また天正二年(一五七四)安芸郡東部が長宗我部氏の支配下となって後も東寺領とされた。

領家村
りようけむら

[現在地名]掛川市領家

村内をさか川が貫流し、東は高御所こうごしよ村。東海道が通る。中世は曾我そが庄に含まれていたとみられる。「掛川誌稿」によると、慶長九年(一六〇四)の検地帳では松下まつした久保くぼ柳原やなぎわら吉詰よしつめ黒田くろだに分れていたが、慶安四年(一六五一)東海道より北にあった黒田を分村したという。文禄二年検地高目録に「曾我庄領家村」とみえ、高七八五石余。元和五年(一六一九)以降は掛川藩領。正保郷帳では田方八五〇石余・畑方八九石余、ほかに六所八幡(現六所神社)領五石、尊永そんえい(現袋井市)領三五石がある。元禄郷帳では高八八四石余で、高の減少は黒田村を分村したことによる。

領家村
りようけむら

[現在地名]上尾市平方領領家ひらかたりようりようけ、大宮市平方領領家

地頭方じとうかた村の西にある。大宮台地指扇さしおうぎ支台上に集落があり、南側はかも川・荒川へ連なる浸食谷を隔てて中釘なかくぎ(現大宮市)平方河岸へ向かう川越上尾道と与野からの道が通る。足立郡平方領に属する(風土記稿)。田園簿では田五〇石余・畑一六九石余で岩槻藩領。延宝九年(一六八一)収公され、国立史料館本元禄郷帳では幕府領。宝永(一七〇四―一一)以後旗本羽太領(寛政重修諸家譜)。検地は元禄七年(一六九四)に行われた(「御検地之節日記」東京都河井家文書)。寛文五年(一六六五)の上尾宿助馬調(「絵図面村々高」田中家文書)では勤高二二四石・役家一二軒。

領家村
りようけむら

[現在地名]浦和市領家一―七丁目・大東だいとう一―三丁目・駒場こまば一―二丁目・さき二丁目

瀬ヶ崎村の北に位置し、洪積台地沖積低地からなる。西は藤右衛門とうえもん川の上流天王てんのう川を境にはり村。北東境を赤山あかやま街道が通る。検討を要する史料であるが、永禄三年(一五六〇)一二月晦日の太田資正判物(潮田文書)に「大宮・浦和之宿、木崎・領家方」とみえる。田園簿では田一四〇石余・畑一五七石余で、幕府領・旗本青木領。

領家村
りようけむら

[現在地名]川口市安行領家あんぎようりようけ安行出羽あんぎようでわ一―五丁目

安行村・藤八とうはち新田の南に位置し、ほぼ中央を南流する赤堀あかぼり用水によって台地と低地に分けられる。東端を伝右でう川が南流する。田園簿では田三七二石余・畑一六五石余で、旗本伊奈領。国立史料館本元禄郷帳によると旗本羽太領となっているが、但書に「同郡之内、外ニも同村名有之、何連も高符合不致、先此所ニ記」すとあり、信憑性に欠ける。しかも明和六年(一七六九)七月から一二月まで当村から伊奈家へ諸役人足六二人が出役しており(「出人足触元帳」杉浦家文書)、依然として伊奈領であったと考えられる。

領家村
りようけむら

[現在地名]浜松市大塚町おおつかちよう

西大塚にしおおつか村の東、鶴見つるみ輪中にある。文化一二年(一八一五)の天竜川御普請絵図(浜松市博物館蔵)は、鶴見輪中東縁の堤外に「領家三郎五郎入会」と記す。中世はかば御厨のうちで、康正二年(一四五六)頃の蒲御厨東方・西方年貢銭進未注文(東大寺文書)に「領家公文」がみえ、皆済とある。寛正六年(一四六五)八月一五日の蒲御厨東方年貢請取算合帳(同文書)によれば領家の寛正四年未進分は三〇〇文、同五年分の年貢五〇文は請取ったが、ほか三五〇文が未納という。

領家村
りようけむら

[現在地名]高知市領家

唐岩からいわ村の北西にある山間の村。村の中央谷間に集落がある。古くは引地ひきじ村と称された(南路志)。土佐郡に属し、「土佐州郡志」は領家郷の一村として「東西二十町南北十六町、(中略)其土赤、休場・奥谷二村属此村」と記す。天正一七年(一五八九)の領家山地検帳に「引地名」とみえ、検地面積七町八反四四代二歩、うち田分六町一反二七代四歩・畠分五反三〇代五歩・屋敷一町一反三五代五歩。屋敷数二三、うち居屋敷一〇。すべて長宗我部氏家臣片岡大炊助の給地。寺院として蔵雲庵がみえる。

領家村
りようけむら

[現在地名]福井市かしら

朝倉あさくら山の南東麓、田頭たのかしら村の北西に位置し、福井藩領。正保郷帳に村名がみえ、田方六石余・畠方一八石余。宝暦一二年(一七六二)の申渡覚(「棗村誌」所収)によると「当夏甚シ旱損引水之節、田ノ頭村井番七郎兵衛不調法之段形有之、井番役取揚、領家村茂兵衛ト申者ヘ後役申付候」とあって、隣村田頭村の桝溜ますだめの五ヵ村用水井番役が当村の茂兵衛に預け置かれている。

領家村
りようけむら

[現在地名]松岡町領家

九頭竜くずりゆう川北岸にあって、東は坪之内つぼのうち、西は四郎丸しろうまる(ともに現坂井郡丸岡町)。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では坂北さかきた磯部北いそべきた保に含まれたらしい。

領家村
りようけむら

[現在地名]今立町領家

藤木ふじのき村の東にあり、服部はつとり谷中央部に位置する。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図に村名がみえ、高五四八・八石とある。正保郷帳でも村高は変わらず、うち田方三五八・八石・畠方一九〇石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報