川上郡(読み)かわかみぐん

日本歴史地名大系 「川上郡」の解説

川上郡
かわかみぐん

面積:二七一・五四平方キロ
川上かわかみ町・備中びつちゆう町・成羽なりわ

県の西端中央部に位置。昭和二九年(一九五四)高梁たかはし市成立に際して東半部が同市に編入され、また同年南部の一部が小田おだ美星びせい町となったため、現在の川上郡は北は阿哲あてつ郡、東は高梁市、南は小田郡および後月しつき郡に接し、西は広島県境。標高四〇〇―五〇〇メートルの吉備高原の一部を占め、高梁川の支流成羽川が郡中央部を北西から南東方向に貫流し、深い渓谷を形成する。同川の支流に坂本さかもと川・領家りようけ川・島木しまき川・日名ひな川などがある。成羽川上流の備中町西油野にしゆののV字谷には昭和四三年中国電力新成羽川発電所が完成、中国地方有数の規模を誇り、新成羽川・田原たばら黒鳥くろどりの三ダムが建設された。成羽・川上両町域の高原の一部にはカルスト地形が展開、高梁市西端から川上郡南部、後月郡北部に分布する中生代三畳紀の成羽層群は化石の宝庫として知られる。ほかに大賀デッケン(川上町)えだの不整合(成羽町)や吉備高原上の孤立峰弥高やたか(川上町)などがあり、地質学上注目される地域である。

当郡は平安末期から鎌倉初期頃に下道郡北部を分割して成立したものとみられる(→下道郡。「拾芥抄」に「河上」郡と記され、「和名抄」の下道郡一五郷のうち近似ちかのり成羽なしは弟翳穴田あなだ湯野ゆのの五郷が郡域にあたるとされる。なお応永元年(一三九四)仮託の吉備津宮惣解文写(吉備津神社文書)には、前記五郷のほか穴戸あなと郷がみえる。郡内には大同二年(八〇七)の開坑といわれる吉岡よしおか銅山などがあり、「延喜式」主税寮に「凡鋳銭年料銅鉛者、備中国銅八百斤」とある備中産銅は、同所産という説もある。

〔中世〕

郡域には京都天龍てんりゆう寺領の成羽庄庄などが成立し、各々古代成羽郷・弟翳郷の地域にあたるとみられる。成羽庄は永和四年(一三七八)の旦那売券(熊野那智大社文書)に「なりわの里」とみえ、永徳元年(一三八一)天龍寺に寄進されている。手庄は「蔭涼軒日録」長享元年(一四八七)一〇月二六日条に「備中手庄」とみえ、京都相国しようこく寺領であった。

川上郡
かわかみぐん

明治二年(一八六九)から現在に至る釧路国および釧路支庁(一時釧路国支庁)管内の郡。明治二年八月一五日設置(公文録)。旧クスリ場所の一部が郡域となる。現在は標茶しべちや町・弟子屈てしかが町の二町。北海道東部に位置し、釧路国のほぼ中央部東寄りを占める。北は北見国斜里しやり郡と網尻あばしり郡、東は根室国野付のつけ郡・標津しべつ郡と厚岸あつけし郡、南は厚岸郡・釧路郡、西は阿寒あかん郡に接する。郡名は松浦武四郎の提案によって「是クスリ川上なる故に如此号置事也。クスリ土人皆川上を唱フ故如斯号ク」ことから付けられ、その範囲は「クスリ川筋トウロより上シヘツチヤ クマウシ テシカヽ クツチヤロの村々准之」とされた(「郡名之儀ニ付奉申上候条」松浦家文書)。明治二年八月肥前佐賀藩の支配に割当てられ、同四年八月の諸藩分領の廃止に伴い開拓使管轄となったが、移行措置として川上・釧路・厚岸の三郡は同五年三月まで伊万里県が差配した(標茶町史)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報