敷生村(読み)しきうむら

日本歴史地名大系 「敷生村」の解説

敷生村
しきうむら

[現在地名]白老郡白老町字萩野はぎの・字北吉原きたよしわら・字竹浦たけうら・字虎杖浜こじようはま

明治初年(同二年八月から同六年の間)から大正八年(一九一九)三月までの村。白老郡の西側に位置し、東は白老村、西は幌別ほろべつ郡登別村、北はオロフレ山(一二三〇・八メートル)などがそびえる山岳地帯、南は太平洋に臨む。敷生川が流れ、南西端に円形倶多楽くつたら湖がある。近世はシラヲイ場所のうちで、シキウアヨロなどのコタンからなっていた。出羽米沢藩士の宮島幹は「北行日記」明治三年(一八七〇)九月一六日条に「シクヱ(シキウ)川巾三、四十間馬ニテ渡ル、此川筋ニ土人小屋五、六十軒、行半里斗ニシテアヨロ人家二、三軒アリ、昼休所アリ、此処ニテ弁当ヲ用ユ」と記しており、敷生川筋のコタンが中心地であった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

中国のゴビ砂漠などの砂がジェット気流に乗って日本へ飛来したとみられる黄色の砂。西日本に多く,九州西岸では年間 10日ぐらい,東岸では2日ぐらい降る。大陸砂漠の砂嵐の盛んな春に多いが,まれに冬にも起る。...

黄砂の用語解説を読む