明治初期の太政官に属する一官庁で,北海道(初期には樺太を含む)の開拓を任務とした。1869年(明治2)7月版籍奉還後の官制改革によって設置され,82年2月に廃止された。この間1870年2月に樺太開拓使を分置し,開拓使も北海道開拓使と称したが,廃藩置県後の71年8月再び統合して開拓使となった。版籍奉還後,ただちに開拓使が設置されたのは,日露雑居の地樺太をめぐってロシアとの関係が緊張し,北方の開拓が急務とされたからであり,開拓によって国富を増進できるのではないかという期待もあった。開拓長官は初め鍋島直正,次いで東久世通禧(みちとみ)だったが,1870年5月に黒田清隆が開拓次官になってからは,黒田が開拓使の実質的な中心となった。黒田は74年8月から開拓長官となり,鹿児島出身の官僚を多く集めたので,開拓使は薩摩閥の独占するところとなった。開拓使の庁舎は,初め東京に置かれ,1870年から函館に,71年から札幌に本庁を移した。函館,根室,浦河,宗谷,樺太に各支庁を置いたが,相次いで廃止され,75年11月樺太・千島交換条約によって樺太支庁が廃止されてからは,札幌本庁と函館と根室の2支庁によって全道および千島を管轄した。このほか東京出張所があって政府との連絡にあたり,黒田も東京出張所にあって開拓事務を指揮することが多かった。開拓使はアメリカからH.ケプロン以下の顧問団を招き,その助言を得て,1872年から10年間毎年100万円の政府支出に管内税収を加えて開拓事業を進めた。W.S.クラークを招いて設立した札幌農学校や官園(東京,函館,札幌の農事試験場)によって開拓技術者の養成と洋式農法の導入をはかり,函館から森,室蘭から札幌に至る新道の建設や小樽,札幌,幌内炭坑を結ぶ幌内鉄道の建設などの交通手段を整備し,ビール,製糖,製麻などの農産加工工場や木工,鉄工,製網など生産や生活にかかわる諸工場や各種の鉱山など多くの官営事業を営んだ。札幌本府を建設し,その周辺や警衛の要地に屯田兵を配した。また先住民アイヌを平民に編入し,きびしい同化政策をとった。
これらの事業は先駆的ではあるが,ほとんど札幌周辺にかたよっており,計画性にも乏しかった。10年間の総支出は2000万円を超えるが,官営の諸事業はおおむね欠損が多く,資源調査,測量,土地区画,交通手段など移住開拓のための基礎事業も進んでいなかった。このような状態のまま,政府の財政緊縮,官営事業払下げの方針の影響もあって,予定の10年間を終わった1882年に廃止された。廃止にあたって,黒田は開拓使の諸事業を開拓使官吏や関西の政商に引き継がせようとして,いわゆる開拓使官有物払下事件をおこし,世論のきびしい批判を浴びた。廃使後は,札幌,函館,根室の3県を置いてその管轄を継承し,官営諸事業に関しては83年に農商務省北海道事業管理局を設けて,そこに移管させた。北海道を総轄する統一的官庁として北海道庁が設置されたのは86年1月である。
執筆者:永井 秀夫
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北海道、樺太(からふと)(サハリン)などの開拓のために設けられた明治初年の官庁。1869年(明治2)7月、版籍奉還直後の官制改革によって設置、1870年2月には樺太開拓使を分置し北海道開拓使と称したが、1871年8月にはふたたび開拓使となった。1875年の樺太・千島交換条約により樺太を管轄から除き、得撫(ウルップ)島以北の千島列島を管轄に加えた。鍋島直正(なべしまなおまさ)、ついで東久世通禧(ひがしくぜみちとみ)が開拓長官となったが、1870年5月に黒田清隆(きよたか)が開拓次官となり実質的中心となった。黒田は1874年8月開拓長官となり、開拓使の上級官僚に薩摩(さつま)藩出身者を集めたので、薩閥の温床とみられるようになった。
1872年以降の10年間に2000万円以上の経費を投じ、アメリカから招いたケプロン以下の顧問団の助言を得て、札幌本府を開き、道路、鉄道を建設し、炭鉱を開き、屯田兵(とんでんへい)以下の移住民を送り、またビール、砂糖、亜麻(あま)、木材、漁具、農具など各種の製造工場をつくった。またクラークを招いて札幌農学校を開き各地に官園(試験場)を設けるなど、開拓官僚、技術者の養成と洋式農法、品種の導入に努めたが、まだ試験的な性格が強く、諸事業は札幌周辺に偏っていた。開拓使官有物払下げ事件の翌1882年2月廃止されて、函館(はこだて)、札幌、根室の3県に分割され、官営諸事業の多くは1883年に置かれた農商務省北海道事業管理局に移管された。1886年ふたたび北海道庁に統一された。
[永井秀夫]
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北海道および樺太の開拓を主任務とした明治初期の官庁。1869年(明治2)7月,版籍奉還後の官制改革により設置。当初東京に本庁をおいたが70年閏10月函館へ,さらに71年5月札幌に移転した。70年5月黒田清隆が開拓次官(74年長官)に任命されて,開拓政策推進の中心となった。黒田は71年1~6月に渡米し,H.ケプロンを開拓使顧問として招くことを決定。72年以降10年間毎年平均100万円の継続支出が認められた。道路・鉄道・都市の整備,官営工場経営,石炭の採掘,屯田兵の配置,移民の入植・定住など,82年2月開拓使の廃止までの10年間の総事業支出は2000万円をこえたが,官営事業はほとんど欠損を生じた。
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