朝日日本歴史人物事典 「斎藤宜義」の解説
斎藤宜義
生年:文化13(1816)
幕末明治期の和算家。上野国(群馬県)の和算家宜長の子。通称は長平,朝二,号は算象,逐斎,乾坤独算民。その算学塾を上毛数学校と称した。父に和算を学び,10歳で算額を奉納,16歳で『側円適等』を著し和算家としての頭角を現す。18歳のとき宜長閲・宜義著として『算法円理鑑』を刊行し,以後『算法円理起源表』(1837),『算法円理新々』(1840),『数理神篇』(1860)を発表する。書中の斬新で高尚な問題は諸国の和算家の目をひいた。社会の変化に動ぜず財を傾け清貧に甘んじた姿は乾坤独算民の号そのものである。<参考文献>大竹茂雄『数学文化史―群馬を中心として』
(小林龍彦)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報