斎藤寅二郎(読み)さいとうとらじろう

改訂新版 世界大百科事典 「斎藤寅二郎」の意味・わかりやすい解説

斎藤寅二郎 (さいとうとらじろう)
生没年:1905-82(明治38-昭和57)

映画監督。寅次郎とも。秋田県生れ。喜劇を得意とし,生涯喜劇のみを撮り続けた異色の作家。失業者たちが子豚を追いかけて奪い合っているうちにそのままラグビーの試合になってしまうという,〈狂気沙汰のアクションギャグ〉でクライマックスを迎える不況時代の風刺喜劇《子宝騒動》(1935,サイレント),失業者が生活苦のため子を捨てにいくが逆にたくさんの子を拾ってしまうというチャップリン的どたばた人情喜劇《この子捨てざれば》(1935,サウンド版)から,エンタツ,アチャコの喜劇《新婚お化け屋敷》(1939),〈伴淳〉の《アジャパー天国》(1953)等々に至るまで200本以上のナンセンス喜劇をつくり,スラプスティック,とくにチャップリン映画をねたに独特の〈寅次郎喜劇〉を創造した。1922年,松竹蒲田撮影所に入社し,助監督時代を経て,26年,監督に昇進以後,松竹,東宝,新東宝で活躍。その作品はもっぱら外国ものの〈いただき〉とパロディに徹したナンセンスギャグにあふれたもので,映画や文学の話題作やヒット作の題名をもじったものだけでも,《全部精神異常あり》(1929,《西部戦線異状なし》のもじり),《何が彼女を裸にしたか》(1931,《何が彼女をさうさせたか》のもじり),《噫(ああ)薄情》(1935,《噫無情》のもじり),《馬帰る》(1935,《父帰る》のもじり),《誰がために金はある》(1948,《誰がために鐘は鳴る》のもじり)等々枚挙にいとまない。そこには,おおらかなふざけの精神が一貫しているが,本領を発揮した時期は第2次世界大戦前で,戦後量産ペースが上がり,切れ味に衰えを見せたといえよう。
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367日誕生日大事典 「斎藤寅二郎」の解説

斎藤 寅二郎 (さいとう とらじろう)

生年月日:1905年1月30日
昭和時代の映画監督
1982年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の斎藤寅二郎の言及

【榎本健一】より

…エノケンの愛称で親しまれた不世出のコメディアン。天性の身軽さでどたばたを演じ,天才的な音感で難曲を歌いこなした。東京青山に靴屋の息子として生まれる。浅草オペラ全盛の1922年に,17歳で根岸歌劇団のコーラス部員として初舞台を踏み,23年の正月公演《猿蟹合戦》の,その他おおぜいの子猿の1匹の役で,お鉢を抱えて逃げ回ったあげく,舞台の隅でひっくり返し,大立回りをしり目に,こぼれたご飯をたんねんに拾って食べる姿が大受けに受けた。…

【喜劇映画】より

…さらに《大逆転》(1983)では,1930年代の喜劇のパターンを現代に生かそうと試みている。
[日本の喜劇映画]
 日本では,サイレント時代から,斎藤寅二郎がナンセンス・どたばた喜劇を作り,伊丹万作や山中貞雄が時代物の喜劇を発表した。この時期,小津安二郎も,軽妙な風俗喜劇を次々に作っていた。…

【美空ひばり】より

…第2次世界大戦後の日本の代表的人気歌手。本名加藤和枝。横浜市磯子区滝頭(たきがしら)の魚屋の長女として生まれ,天性の才能と母親の〈芸能界好き〉によって,9歳から近くの劇場に出演,1948年には横浜国際劇場,49年には日劇と,本格的な劇場への出演をはたし,笠置シヅ子(1914‐85)の《東京ブギウギ》など当時のヒット曲をおとな顔負けの巧みさでこなして,〈天才少女歌手〉として評判となった。49年9月,《河童ブギウギ》に続く2枚目のレコード《悲しき口笛》をコロムビアレコードから発売,続いて10月にはこれを主題歌とする松竹の同名主演映画も公開されて(これが初の主演映画。…

※「斎藤寅二郎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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