翻訳|comedy
演劇の歴史のなかで,ふつう,悲劇とともに演劇の二大分野の一つをなすといわれる。明確な定義があるわけではないが,通念上の最大公約数的な定義をすれば,何らかのかたちで笑いをよびおこす演劇一般,ということができよう。しかし,実際にはたとえばチェーホフが,《桜の園》や《かもめ》のような作品の副題に,わざわざ〈喜劇四幕〉とことわったことに象徴されるように,とくに近代以降においては喜劇の概念はあいまい化しており,そのような分類自体が無意味であると考える人も少なくない。だがいうまでもなく,そのことが,いわゆる〈喜劇〉の中に含まれる特有の精神的価値を損なうわけではなく,その本来的な批判精神とそれが人々に及ぼす精神的な効果(笑い,思考への刺激)というものは,今日の社会においても,なんらかの意味を持つといってよいであろう。
コメディcomedyの語源は,ギリシア語のkōmos(祭宴の行列)とōidē(歌)を重ねたコモイディアkōmōidiaに由来する。古代ギリシアのディオニュソスをたたえ豊饒を祝う祝祭行列,男根儀礼,為政者に対する風刺批判の歌などが劇形式に発展し,前5世紀には,喜劇として完成した形式をもつようになる。崇高な世界を扱う悲劇とは違って,市井の日常生活を扱いながら,やはり合唱団(コロス)をもち,パラバシスという直接観客に語りかける部分もそなえていた。アリストファネスの《女の平和》は,男たちに戦争をやめさせるために,女たちがセックス・ストライキを行うという,おおらかな社会風刺劇であるが,このような痛烈な社会批判の喜劇は,民主制が終わると衰退し,前4世紀からは,メナンドロスに代表されるギリシア新喜劇が主流となった。これは色恋など市井の私事を扱う風俗的な喜劇で,ヘレニズムの伝播によってローマに伝えられ,前2世紀以後ローマにプラウトゥス,テレンティウスの喜劇が生まれる。滑稽な性格をもつ人物(けちんぼう,ほらふき兵士)や身分的な役柄(下男,遊女,去勢者)などが固定し,またおかしみやハッピーエンドをもたらすさまざまな状況(かち合せ,とり違えなど)がくふう・考案され,ヨーロッパの正統喜劇の源流になった。のちの性格喜劇comedy of characterと状況喜劇comedy of situationという分類法も,この二つの要素の比重によるのである。ローマには,身ぶり物まねを主体にするミモスmimos劇も入っているが,これはいわゆる〈喜劇〉より文学性の薄い笑劇(ファルス),痴呆劇(ソティ),茶番劇,道化劇,バーレスクなどのジャンルの原型といえよう。ローマ時代に見世物によって演劇が衰退し,キリスト教化によって身ぶり狂言も弾圧されると,中世にはわずかに大道芸のような形で喜劇的なものが残された。中世宗教劇の香油商人の場などにそのなごりがみられる。中世末期フランスに生まれた笑劇も,その起源は,宗教劇のなかの間(あい)狂言だといわれる。
ルネサンス期に入るとイタリアでローマ喜劇が再発見され,それを模倣した教養喜劇commedia eruditaが書かれるようになる。一方,民衆的な滑稽な劇には,14世紀のオランダのアベレ・スペレンabele spelen(大衆的な世俗劇。何編かの手書きの台本が残っているが,すべて作者は不詳),15,16世紀ドイツの職人階級の間に生まれた謝肉祭劇,貧しい悪徳弁護士を主人公にする《ピエール・パトラン先生の笑劇La farce de maître Pierre Pathelin》(作者不詳)を生んだフランスの笑劇や痴呆劇がある。イタリアでも,古代ローマの地方笑劇アテラナ劇の伝統をもつ方言劇が,劇作家ルッツァンテなどに引きつがれ,16,17世紀には,特定の役柄だけあって定められた台本をもたぬ,職業俳優による即興喜劇コメディア・デラルテが盛んになった。この劇は台本をもつ正統喜劇commedia sostenutaと対立するものであるが,ヨーロッパ各地に進出し,正統古典喜劇の成立に大きな影響を与えることになる。エリザベス朝期のイギリスでは,ベン・ジョンソンが,《十人十色》《ボルポーネ》などの性格を中心とした気質喜劇comedy of humorsを書いている。シェークスピアも《ヘンリー4世》や《ウィンザーの陽気な女房》のなかで,フォールスタッフのような喜劇的個性を創造したが,《まちがい続き》のような状況喜劇も書いているし,悲劇性を含む悲喜劇や,幻想的な喜劇《あらし(テンペスト)》も書いている。スペイン演劇のいわゆる〈黄金時代〉には,ローペ・デ・ベガが,〈マントと剣の喜劇comedia en capa y espada〉という,技巧をこらした恋愛喜劇を書いた。
17世紀にはフランスでモリエールが,イタリアのコメディア・デラルテに登場する類型的な役柄に個性を与えてテキストを定着し,古典的形式にのっとった喜劇のスタイルを完成した。例えば《守銭奴》は,吝嗇漢(りんしよくかん)という従来の喜劇に特徴的な誇張された類型から,リアルな性格をもつ人物に変わっており,それゆえに性格喜劇と呼ばれるのである。彼の喜劇は,主として性格的に欠陥のある人物が破滅し,常識的な人物が幸福な結末に至るという構造をもっているが,ベルグソンは《笑い》のなかで,欠陥のある〈硬直化した〉人物を,社会から排除することを喜劇の機能と考えている。
18世紀には,演劇を道徳的に役立つものとみなす考え方が強くなったから,矯正という役割も考えられた。市民階級の勃興とともに生まれた市民劇では,初めて歴史上の英雄などではなく,市民を主人公とする悲劇も書かれるようになったが(それまで,普通の市民が登場する演劇はすべて喜劇であった),ジャンルの区別の厳しいフランスでは,悲劇的な市民劇でも,結末だけはハッピーエンドに終わらせた。ディドロの提唱する〈まじめな喜劇comédie sérieuse〉や,催涙喜劇comédie larmoyanteというジャンルがそれで,ドイツでも感傷喜劇が流行した。G.メレディスの《喜劇論On the Idea of Comedy》(1877年講演,97年出版)では,社会的な発展の遅れた国で,よい喜劇は生まれない例としてドイツを挙げているが,共感できる主人公の登場するレッシングの《ミンナ・フォン・バルンヘルム》のような喜劇は,モリエール流の喜劇とはジャンルの異なる温かい情をもったドイツ的喜劇とみるべきだろう。
17世紀のモリエールの影響はデンマークのJ.L.ホルベアなどに認められ,イタリアでは,C.ゴルドーニが,即興喜劇の伝統に固執するC.ゴッツィなどの妨害に出会いながら,文学的な性格喜劇を残した。
フランスではP.マリボー,A.R.ルサージュなどがモリエールの喜劇を継承し恋愛心理の細かいニュアンスを描いた〈恋愛喜劇〉をつくりだした。そこには社会風刺的な色彩も強まり,ボーマルシェの《フィガロの結婚》の批判性はフランス革命前の社会の雰囲気をよく伝えている。イギリスでは,一種の風俗劇である独特な〈風習喜劇comedy of manners〉が生まれ,W.ウィッチャリー,W.コングリーブ,R.B.シェリダンなどが出た。
歴史主義的な19世紀には,歴史喜劇も一時期流行したが,写実的で社会や時代を風刺した喜劇(H.vonクライストの《こわれ甕》,A.S.グリボエードフの《知恵の悲しみ》,N.ゴーゴリの《検察官》)が生まれた。また,ロマン派の喜劇では世界苦の時代を背景に個人の複雑な心理を描くA.ミュッセの喜劇は,悲劇的な色合いをもつユニークなものである。19世紀後半は商業演劇が隆盛をきわめた時代であり,娯楽的な写実劇,サロン喜劇,会話喜劇,陰謀喜劇などがウェルメード・プレーの技法によって数多く生産されたが,その最も典型的なのはブールバール劇であろう。パリの演劇通りにちなんで名づけられたこのジャンルは,フランス作家の独壇場で,世紀末から20世紀の初頭にE.ラビッシュ,G.フェードー,A.ルッサンなどが出た。自然主義の登場する世紀末には,社会批判的な方向の強いG.ハウプトマンやG.B.ショーの喜劇が登場する。
すでに19世紀から始まっていた悲劇の崩壊は,20世紀に入ると相当に顕在化してきた。価値感の変化や秩序の崩壊もその一因だが,パトス(激情)やカタルシスなどがそのままの形では存在しにくくなってきたことにもよるのであろう。悲劇,喜劇というジャンル分け自体が無意味になり,S.ベケットの不条理劇のような絶望的な表現が,道化的な手段を使って行われる。しかし一応の独立したジャンルとしては,現代でもなお喜劇が悲劇よりは成立しやすいのは,喜劇のほうが批判的,主知的な姿勢が強いからであろう。B.ブレヒトの異化効果は社会性の強い,批判精神に富んだものであるが,彼はその原型も喜劇的な表現に見いだされるといっている。現代の悲劇作家をあげることはほとんど不可能だが,喜劇なら古い意味の職人的な喜劇作家はいまだに存在している。もっともF.デュレンマットのように,戯画的な喜劇手法のみに固執する作家のテーマが,むしろわれわれの存在の基盤を脅かすような深刻な問題なのである。1960年代には,素朴な茶番やパロディや戯画化が政治批判として有効とされた時期があったが,伝統的な意味での喜劇を単純に健全な社会批判の精神とみるようなオプティミズムは今は色あせ,ブラック・ユーモアやノンセンスが絶望の逆説的表現に用いられるような傾向が強い。内面化,感性化という2方向が顕著になってきた現代の演劇で,ある意味で外形的,知性的な特徴をもつ喜劇がどのように対応してゆくかは速断できない。
日本で,コメディcomedyの訳語として〈喜劇〉という語が用いられるようになるのは,明治以降のことであるが,民俗芸能のなかには古くから喜劇的要素が認められ,中世には独立した劇形式として狂言が完成している。歌舞伎には初期の一部の歌舞伎踊りを別にすれば,喜劇という独立したジャンルはないが,作品のなかに喜劇的要素が混在し,道化的役柄を認めることができる。
明治時代になって,江戸時代後期に発生したにわか芸の系統を伝える改良俄(にわか)にヒントを得て,大阪で生まれた曾我廼家(そがのや)劇は,喜劇的なものをねらった大衆演劇の源流で,のちの松竹新喜劇(渋谷天外から藤山寛美ら)につながっている。昭和初期には東京浅草にボードビル演劇が生まれ,エノケン(榎本健一)やロッパ(古川緑波)のような庶民的喜劇俳優が登場する。このような演劇は〈軽演劇〉と呼ばれた。一方,ヨーロッパの近代演劇運動の紹介から始まった新劇では,深刻な社会問題劇や象徴的な新浪曼派劇が好まれ,正統的な喜劇はあまり積極的に紹介されなかった。笑いを下品なものと考える儒教的な道徳感や,乾いた批判的・風刺的な笑いの欠乏,情緒過多の傾向などが,文学的な喜劇を育てなかったのであろう。戦前の新劇では,喜劇に重点をおいたのは金杉惇郎・長岡輝子夫妻を中心にしたテアトル・コメディ(1931結成,36解散)の活動ぐらいであった。現在,自他ともに喜劇作家として認めている飯沢匡(いいざわただす)(1909-94)のような喜劇作家もここから出ている。
戦後には事情は大分変わってきた。やや教条的なリアリズムが新劇を支配していた時期が終わり,1960年代に入ると,喜劇の社会批判的な効果が見直され,70年代にはさまざまな喜劇的手法が,劇構成の要素のなかに含まれるようになっている。文学的な高次の喜劇と低俗な喜劇という区分や,喜劇というジャンルそのものも現代ではひじょうに曖昧になっているといえるだろう。
→道化 →悲劇 →風刺 →笑い
執筆者:岩淵 達治
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コメディcomedy(英語)、comédie(フランス語)やルストシュピールLustspiel(ドイツ語)などの訳語。コメディの語は古代ギリシアの喜劇コモイディアkomoidíaからきており、この語は、「浮かれ行列」の意のコモスkomosと「歌」の意のオイデoideの複合語。アリストテレスは『詩学』で「村」の意のドーリア語系のコメkomeとの複合とする説も紹介しているが、今日の古典学者はとらない。しかし、コモイディアが男根崇拝歌に由来するとするアリストテレスの記述は一般に受け入れられている。また、コメディの語は、ルネサンス以降、ダンテの『神曲』(ディビナ・コメディア)のように、劇以外の文学ジャンルでも適用されることが多いし、喜劇だけでなく、フランスの国立劇場の「コメディ・フランセーズ」のように劇全般をさす語としても使われてきた。
[毛利三彌]
悲劇論におけるアリストテレスの『詩学』のような、喜劇理論形成の支柱となる論がないため、喜劇の定義は明確さを欠く。アリストテレスは、わずかに悲劇との対比で、喜劇はわれわれの周りの人物より劣った人間を描くものであること、その醜さやおかしさはわれわれに苦痛を与える性質のものではないことを述べているが、これは、日常生活を写し、結末はめでたしで終わるものという、ルネサンス以降に一般的となっている喜劇定義に合致する。ハッピー・エンドの多くは相思相愛の男女の結婚成就の形をとるが、19世紀末以来の文化人類学的見方に従って、ここに古代祭式の痕跡(こんせき)をみる者も多い。つまり、死んではよみがえる「年の霊」の祭事のなかで、よみがえる部分(生命の誕生を招来する結婚)を劇化したものが喜劇であるとするのである。
劇的効果の点では、否定的人物を笑いの対象とすることで観客を教化するという論が喜劇作家の常套(じょうとう)文句だったが、近代では、純粋の気晴らしとしても社会的効用が認められてきた。これは「笑い」の理論の推移にも見合う。かつての、優越感が笑いのもととする見方は、18世紀末から、対象のもつ不協和性に笑いの誘因をみるように変わってきた。
しかし喜劇作品の文学性をうんぬんする立場からは、作家のいわば「喜劇的精神」の発現を重視する。18世紀末以降のロマン主義芸術観で賞揚されるアイロニー、近代の社会批判性、また現代世界のグロテスクさや不条理性の表現に喜劇の独自性をみるのである。これは悲喜劇の系譜の評価にもつながる。しかしながら、優れた悲劇はつねに文学的価値をもつが、喜劇は上演形態の特異さによっても優れたものとなる。喜劇理論の混乱の一因は「喜劇的要素」と「喜劇的主題」の混同にもあるのだろう。
[毛利三彌]
喜劇的要素を重んじる意味では、滑稽(こっけい)な会話や行為を主体とするファルス(笑劇)、歌入り寸劇のボードビル、歌と踊りが重きをなすオペラ・コミック(喜歌劇)、バーレスク、幕間(まくあい)狂言、どたばた喜劇、あるいは日本の漫才や落語も喜劇の範疇(はんちゅう)に入れられよう。
劇内容に関しては、登場人物の特殊な性格を描く性格喜劇comedy of character、世間風俗や人物のふるまいのおもしろさを中心とする風俗喜劇comedy of manners、また入り組んだ筋でみせる筋立ての喜劇comedy of intrigue、実在人物や社会を風刺する風刺喜劇satirical comedyなどの分類がされるが、いずれも便宜的な名称である。ただ風俗喜劇は、17~18世紀のイギリス王政復古期の演劇を特定してよぶとき使われることがあり、同様に、18世紀フランスで流行した人情劇を催涙喜劇comédie larmoyanteとよんでいる。現代の悲喜劇にはとくに、暗い喜劇black (dark) comedyとか不条理劇absurd dramaとかよばれるものもある。
[毛利三彌]
西洋演劇の歴史は古代ギリシアのアテナイ(アテネ)に始まるとするのが通常だが、喜劇の発生は祭事における行列の男根崇拝歌に源をもつとするアリストテレスの記述以上の具体的なことは不明である。作品が現存する最古の喜劇作家アリストファネス(前448ころ―前380ころ)のものは、風刺、諧謔(かいぎゃく)や作者の意見発表を旨とするものであったが、メナンドロス(前342ころ―前292ころ)のころには、まったく社会批判性を失った筋中心の新喜劇となる。ローマ時代になると、プラウトゥス(前254ころ―前184)、テレンティウス(前195ころ―前159)がギリシア新喜劇の翻案で名を残し、後世に影響を与える。
中世宗教劇はキリストによる救済を予定する点で喜劇的世界観にたつとしてよいが、ルネサンス近くになると、ドイツにハンス・ザックスの謝肉祭劇Fastnachtsspiel、フランスに『パトラン先生』(1464ころ)のような笑劇farceの傑作が生まれる。ルネサンス期のイタリアでは、古典劇を模倣する人文主義演劇のなかで、マキャベッリの『マンドラゴラ』(1513)を頂点とする不道徳礼賛の筋立て喜劇を生み、一方で、即興演技を重視する職業劇団によるコメディア・デラルテを発生させた。イギリスでは16~17世紀にエリザベス朝演劇が開花するが、そのなかで、喜劇の巨匠とされたのはベン・ジョンソンで、気質喜劇comedy of humoursとよばれる特異な性格を描いた風刺劇に優れた才能をみせた。もう1人の巨匠はむろんシェークスピアである。同時期のスペインは文芸の黄金時代を迎え、コメディアcomediaと称する一種の悲喜劇を確立させた。ローペ・デ・ベーガ、カルデロン・デ・ラ・バルカらに代表される。フランスはすこし遅れて演劇を開花させ、コルネイユ、モリエールが喜劇伝統の基盤を築く。
18世紀は喜劇が主流となった。フランスには恋愛心理を描くマリボー、革命前夜のエネルギーを発揮させたボーマルシェ、イギリスにはゴールドスミス、シェリダンが出、イタリアではゴルドーニとゴッツィがコメディア・デラルテ是非の新旧喜劇観を対立させた。デンマークのホルベアは啓蒙(けいもう)思想家の喜劇制作としてドイツのレッシングにつながり、18世紀末からのロシアには、フォンビージン、グリボエードフ、ゴーゴリと続く風刺劇の伝統が形成される。しかし、18世紀最大の人気はセンチメンタルな催涙喜劇に集中し、19世紀の通俗喜劇pièce bien faite(フランス語)、well-made play(英語)へと流れる。これらを土壌として、19世紀後半に、北欧のイプセン、ストリンドベリ、ロシアのチェーホフらがまったく新しいタイプの喜劇を書く。
20世紀は、雑多な種類の演劇が併存し、戯曲より上演方法が重視される意味で、悲劇より喜劇の時代といってよい状況にある。
[毛利三彌]
日本には西洋の悲劇・喜劇にあたる劇分類の発想はなかった。あったのは能に対する狂言、人形浄瑠璃(じょうるり)や歌舞伎(かぶき)における時代物に対する世話物の区別だが、狂言や世話物は日常生活を写したものという点で、西洋の喜劇の範疇に入りうるだろう。しかしこれらは滑稽な要素や風刺を含みはしても、かならずしもめでたしめでたしで終わるとは限らない。むしろ能や時代物のほうが観念的にせよハッピー・エンドの結末をもつ。もし、雑多な要素を含んで明確なジャンル規定にあわない劇は悲劇より喜劇の部類に入るとするなら、日本演劇は古代芸能から一貫して喜劇的であった。伝説的な日本芸能の起源とされる天鈿女命(あめのうずめのみこと)の岩戸の舞や、大陸から入って流行した散楽(さんがく)、その後の田楽(でんがく)などにみられた雑芸(ぞうげい)性は、能、狂言、人形浄瑠璃、歌舞伎からも消えていない。
明治時代になり、翻訳語の「喜劇」を使うようになる上方(かみがた)の大衆劇は今日の松竹新喜劇につながるが、いわば催涙喜劇的人情劇が主であり、昭和のエノケン(榎本(えのもと)健一)、ロッパ(古川緑波(ろっぱ))らの喜劇役者も、雑芸芝居の伝統からはみ出なかった。日本で正統的(文学的)な喜劇が確立するのは、第二次世界大戦後のことといってよい。
[毛利三彌]
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…それらの起源は前史時代にさかのぼり,ミュケナイ時代には先進オリエント文明からの影響も受けて,さまざまの発展をたどったものと思われる。後世ギリシア演劇を代表する悲劇,喜劇などの仮面演劇は,それらの伝統芸能の豊かな素地の上に成立した総合芸術である。
【背景と前史】
現存する最古の悲劇,喜劇,サテュロス劇(合唱団が,酒神ディオニュソスの従者として登場する半獣神サテュロスから成り立っている演劇)はいずれも前5世紀中葉の,アッティカ地方の主都アテナイにおける演劇活動の最盛期の産であり,すでにおのおのの完成した文芸形式にのっとるものといってよい。…
…その文化政策であるアカデミー・フランセーズ創設(1635)や文人,芸術家の庇護は,上からの改革として古典主義の確立に大きな役割を果たし,アカデミー・フランセーズの中心人物シャプランJean Chapelain(1595‐1674)は,16世紀以来のイタリア人文学者を中心とするアリストテレス《詩学(創作論)》の読解を受けて,古典主義の理論的基準となる規則論を確立する。1637年初演のP.コルネイユの悲喜劇《ル・シッド》をめぐるアカデミー側と作者側の規則論議(いわゆる〈ル・シッド論争〉)は,40年代のコルネイユ自身の〈規則にかなった悲劇〉(《オラース》《シンナ》《ポリュークト》)の制作と成功によって,実践の領域へと超えられていく。もっとも絶対王政成立にとって最も大きな試練であったフロンドの乱の前後には,リシュリューの後を継いだイタリア人の宰相・枢機卿J.マザランによるイタリア・オペラの導入をはじめ,バロック的なものが隆盛を誇る。…
…とくに〈町民劇〉とも訳される。 18世紀前半までは,多くの戯曲はギリシア・ローマ古典劇の方法にのっとって作られており,悲劇の主人公は,神話的人物,王侯,歴史的な大人物に限られ,普通の市民の登場する演劇はすべて喜劇であった。アリストテレスの《詩学》では,悲劇の主人公が偉大な人物でなければならないのは,破滅の際の落下の距離が大きい方が,悲劇的な効果も大きいからと説明している。…
…祭祀のなかで,人間は願望,畏敬,感謝,諦念など,世界に対する一定の態度をとるのであるが,この態度は演劇のなかにもひきつがれて,それが特定の演劇の方法論と結びついたとみることができる。演劇には古くから悲劇,喜劇という二分法があり,今日もなお強く生き残っているが,これは,劇の形式的な分類であるとともに内容上の区別であり,劇作法の種類でありながら,同時に人間の人生観の違いに結びつけられている。そのことから,悲劇的,喜劇的という形容詞は,人生上の事件そのもの,人間の生き方そのものに転用されるが,これは他の芸術分野のジャンル名にはみられない現象だといえる。…
…しばしば日本でもそのままトラジコメディとよばれる。悲劇的要素と喜劇的要素が入り混じってあらわれるために,伝統的な悲劇,喜劇の定義にはあてはまらない作品をいう。最初にこのいい方を使ったのは,古代ローマの劇作家プラウトゥスで,自作の《アンフィトルオ》の第50行から63行にかけて,古代ギリシア演劇以来伝統的に悲劇の主人公に定められている神々や王侯と,喜劇の主人公に定められた奴隷とがともにあらわれるため,粗野な喜劇と崇高な悲劇との混淆型が生まれると述べている。…
※「喜劇」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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