東宝(読み)とうほう

改訂新版 世界大百科事典 「東宝」の意味・わかりやすい解説

東宝[株] (とうほう)

演劇,映画,芸能の製作配給,興行会社。宝塚少女歌劇の東京公演のために,小林一三が1932年8月設立。34年東京宝塚劇場を開場した。続いて翌年には有楽座を完工し,やがて日本劇場,帝国劇場をも傘下に加えて,アミューズメント・センターと呼称し,従来松竹がほぼ独占した形であった商業演劇の世界に進出し,ついには興行界を松竹と二分するまでに至った。歌舞伎では,35年の有楽座開場に際して,松竹俳優の中から坂東簑助(のちの8世三津五郎),中村もしほ(のちの17世勘三郎),市川寿美蔵(のちの3世寿海),市川高麗蔵(のちの11世団十郎)らを引き抜いて〈東宝劇団〉と命名し,それまで歌舞伎座が一等席8~9円していた入場料を2円でふたをあけるなどおおいに物議をかもしたが,歌舞伎公演に不慣れのためとかく興行成績がふるわず,わずか3年足らずのうちに消滅した。一方,浅草の作家であった菊田一夫を迎えての古川緑波一座の喜劇は,それまでに見られなかった新しい東京喜劇のジャンルを開拓し,《ガラマサどん》《花咲く港》などの作品を生んで人気が高まった。また映画の製作配給にも手を染め,37年には,前年に発足した東宝映画配給株式会社とPCL映画製作所,JOスタジオ,写真化学研究所が合併して,東宝映画株式会社が設立された。監督では島津保次郎衣笠貞之助,熊谷久虎ら,俳優では大河内伝次郎長谷川一夫入江たか子,山田五十鈴らのスターを引き抜き,森岩雄を中心とするプロデューサー・システムによって製作の合理化をはかり,既存の日活,松竹2社の間に割って入った。とくに,エノケンロッパ,エンタツ,アチャコらの喜劇映画や,《燃える大空》(阿部豊監督,1940),《ハワイ・マレー沖海戦》(山本嘉次郎監督,1942)など,時局に乗じた大作が成功して,広範な観客層を獲得し他社を脅かした。かくて43年には東京宝塚劇場株式会社と合併,新たに東宝株式会社として発足する。

 第2次世界大戦終了と同時に,東京宝塚劇場は進駐軍によって接収され,アーニー・パイル劇場と名を変え,以後約10年間日本人は立入禁止だった。また映画部門では,46年10月から50余日にわたる第1次争議が起こり,スターの大半は第3組合を結成して47年3月新東宝を設立した(1961年映画製作を中止)。5年に及ぶ紛争のため再建不能とまでいわれたが,50年からようやく映画製作も軌道にのり,黒沢明成瀬巳喜男豊田四郎稲垣浩らの監督陣による優れた作品を輩出した。また,森繁久弥,小林桂樹,加東大介らの俳優によるサラリーマン喜劇や《ハワイ・マレー沖海戦》の特撮を担当した円谷英二による《ゴジラ》(1954)をはじめとする怪獣パニック映画が当たり,シリーズ化作品を生むなど,50年代は映画部門が隆盛をきわめた。また55年には,東宝劇場が接収解除となり,演劇部門もしだいに旧勢を挽回ばんかい)した。同年新たに重役に迎えた菊田一夫を中心に,57年芸術座を設け,65年帝国劇場を改築し再開場,東宝歌舞伎,東宝ミュージカル,東宝現代劇の三つの分野を柱に数々の話題作を上演,多数のスター・プレーヤーを生み出した。61年からは,8世松本幸四郎(のちの白鸚)ほかを専属に加え,第2次の東宝劇団を結成,新帝劇を根城に以後11年間に及ぶ演劇活動を行った。その間に,9世幸四郎,2世吉右衛門の看板役者を育て,とくに幸四郎は歌舞伎とは別に《ラ・マンチャの男》ほかのミュージカル・スターとしても脚光を浴びた。一方,製作者藤本真澄を中心とする映画部門は,1960年代には業界全般の斜陽化に苦しみ,《社長》シリーズ,《駅前旅館》シリーズに加え,植木等主演の《無責任男》シリーズ,加山雄三主演の《若大将》シリーズ(1961-71)などの風俗喜劇路線を中心に,特撮を駆使した戦争大作,パニックものなどによってしのいだ。この間,製作部門の分離,東宝東和の設立による洋画配給への進出など,合理化と多角化をすすめた。総じて映画部門は70年代を通じて低調である。しかし興行界にあっては依然として業界随一といわれる。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「東宝」の意味・わかりやすい解説

東宝
とうほう

映画,演劇の制作,配給,興行会社。1932年に阪神急行電鉄(→阪急電鉄)の小林一三が株式会社東京宝塚劇場を設立。1934年東京宝塚劇場,日比谷映画劇場,1935年有楽座をそれぞれ開場,以降全国に劇場を建設した。1936年日本映画劇場を吸収合併し,東宝映画配給を設立。1937年東横映画劇場を吸収合併し東宝映画を設立。1943年東宝映画を合併して現社名に変更し,映画の制作,配給,興行および演劇興行の総合的一貫経営を行なった。1945年梅田映画劇場,南街映画劇場を合併。1954年映画『七人の侍』(黒沢明監督),「ゴジラ」シリーズ第一作を公開。以後「若大将」シリーズ,「ドラえもん」シリーズなどを世に送った。演劇では,松竹に対抗して 1957年劇団東宝現代劇,1961年 8世松本幸四郎らを迎えて東宝劇団を発足させた。劇場は 1957年に芸術座を開場,『放浪記』(1961初演),『細雪』(1966初演)などを上演し人気を博したほか,帝国劇場でも『屋根の上のヴァイオリン弾き』(1967初演。→屋根の上のバイオリン弾き),『ラ・マンチャの男』(1969初演)などでロングランを記録した。1970年代以降は映画制作を大幅に縮小し,テレビドラマの企画・制作に転じた。また映画館跡地を活用した不動産経営に着手し,ビルの賃料などで経営を下支えするようになった。2006年映画興行部門を分離し,TOHOシネマズに事業承継。2011年国際放映,2013年東宝不動産,東宝東和を完全子会社化。

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日本の企業がわかる事典2014-2015 「東宝」の解説

東宝

正式社名「東宝株式会社」。英文社名「TOHO CO., LTD.」。サービス業。昭和7年(1932)「株式会社東京宝塚劇場」設立。同18年(1943)「東宝映画株式会社」と合併し現在の社名に変更。本社は東京都千代田区有楽町。阪急系。映画・演劇の制作・興行会社。主な映画作品は黒澤明作品・ゴジラシリーズ・若大将シリーズ・無責任シリーズなど。映画館跡の一等地を活用した不動産賃貸も収益源。東京証券取引所第1部・福岡証券取引所上場。証券コード9602。

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とっさの日本語便利帳 「東宝」の解説

東宝

旧社名「東京宝塚劇場」と、“東の邦の宝”になるようにとの願いから

出典 (株)朝日新聞出版発行「とっさの日本語便利帳」とっさの日本語便利帳について 情報

世界大百科事典(旧版)内の東宝の言及

【東宝争議】より

…太平洋戦争敗戦直後のアメリカ軍占領下,東宝映画会社と同社砧(きぬた)撮影所を拠点とする日本映画演劇労働組合(日映演)の間に生じた4度の労働争議をいうが,一般にはこのうち1948年4~10月に争われた第3次争議を指す。争点は,人事に関する同意約款などを含んだ団体協約の改訂,および赤字克服のための人員整理をめぐってであったが,会社側の事実上のねらいは,撮影所に強い影響力をもっていた共産党細胞の排除にあった。…

【日本映画】より

… 1935年には,極東映画が元東亜キネマの甲陽撮影所で映画製作を始め,大阪古市に白鳥撮影所を設立した(1936)のち,37年,極東キネマとして新発足したが,40年,大宝映画に買収され,同社は41年に映画製作を中止するに至った。
[東宝の設立とトーキーの歩み]
 1930年代には,やがて日活,松竹と並ぶ大会社になる東宝が生まれた。東宝成立は日本のトーキー映画の歩みとともにある。…

【長谷川一夫】より

…32年には松竹蒲田撮影所で初の現代劇《金色夜叉》にも貫一の役で出演している(田中絹代がお宮を演じた)。 37年,松竹を退社して新興会社の東宝の引抜きに応じたため有名な刃傷事件が起こり,暴漢のかみそりにより左頰に傷を負うが,それを機に本名の長谷川一夫を名のり,入江たか子と共演の東宝映画《藤十郎の恋》(1938)で再起。相手役の女優も山田五十鈴(《鶴八鶴次郎》1938,《蛇姫様》1940,《婦系図》1942),李香蘭(山口淑子。…

【森岩雄】より

…横浜生れ。日本映画に〈プロデューサー・システム〉を導入して,東宝の映画事業の基盤をつくり,また日本の〈アート・シアター〉の命名者,創立者としても知られる。 大正の中期から昭和の初期にかけて外国映画の輸入をし,映画評論や脚本を書き,F.モルナールの《リリオム》の翻案といわれる村田実監督《街の手品師》(1925)のシナリオライターとして,創立10年余りをへて新しい知識と才能を求めていた日活に招かれた。…

※「東宝」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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