斎藤 玉男
サイトウ タマオ
明治〜昭和期の精神科医学者
- 生年
- 明治13(1880)年4月14日
- 没年
- 昭和47(1972)年10月13日
- 出生地
- 群馬県
- 学歴〔年〕
- 東京帝大医科大学〔明治39年〕卒
- 学位〔年〕
- 医学博士
- 経歴
- 東京府巣鴨病院勤務を経て大正5年日本医学専門学校(日医大の前身)教授となり、昭和19年まで務めた。その間大正12年東京品川区に神経科ゼームス坂病院を開設。ここには高村光太郎の夫人智恵子が入院、療養のかたわら切絵を作った。昭和6〜13年東京府立松沢病院副院長を務め、雑誌「脳」に精神科医療について多くの論文を寄せ、精神医学界長老として活躍。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
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斎藤玉男 さいとう-たまお
1880-1972 明治-昭和時代の精神医学者。
明治13年4月14日生まれ。斎藤多須久(たすく)の孫。東京府巣鴨病院医員などをへて,大正5年日本医専(現日本医大)教授となる。昭和6-13年東京府松沢病院(巣鴨病院の後身)副院長をつとめ,実質的責任者として運営にあたった。昭和47年10月13日死去。92歳。群馬県出身。東京帝大卒。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
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