コトバンクはYahoo!辞書と技術提携しています。

高村光太郎 たかむら こうたろう

10件 の用語解説(高村光太郎の意味・用語解説を検索)

美術人名辞典の解説

高村光太郎

詩人・彫刻家。東京生。彫刻家高村光雲の子。東美校卒業後、欧米留学しロダンに傾倒。帰国後、詩と美術の両面にわたる活動を開始、第一詩集『道程』を刊行した。妻智恵子を亡くし、『智恵子抄』を発表した後、太平洋戦争を聖戦として戦争協力詩・愛国詩を書く。戦後、その責任意識から岩手県花巻郊外の太田村に独居自炊の生活を送り、自己裁断を行った。彫刻の代表作としては「手」「老人の首」等。山居生活を終え、十和田湖畔に建つ「裸婦像」の完成後、昭和31年(1956)歿、73才。

出典|(株)思文閣
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

デジタル大辞泉の解説

たかむら‐こうたろう〔‐クワウタラウ〕【高村光太郎】

[1883~1956]詩人・彫刻家。東京の生まれ。光雲の子。欧米に留学。ロダンに傾倒。帰国後、「パンの会」に加わり、「スバル」に詩を発表。近代美術の紹介に努めた。また、岸田劉生らとフュウザン会を結成。詩集「道程」「智恵子抄」「典型」、翻訳「ロダンの言葉」、彫刻に「」など。

出典|小学館 この辞書の凡例を見る
監修:松村明
編集委員:池上秋彦、金田弘、杉崎一雄、鈴木丹士郎、中嶋尚、林巨樹、飛田良文
編集協力:曽根脩
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

百科事典マイペディアの解説

高村光太郎【たかむらこうたろう】

詩人,彫刻家。高村光雲の長男。東京生れ。東京美術学校彫塑科に入学。早くから短歌を作り,《明星》《スバル》に発表,次第に白樺派風の理想主義に傾倒。1906年―1909年欧米に留学,ロダンの影響を受けた。
→関連項目岸田劉生国画会新詩社高田博厚難波田竜起花巻[市]パンの会

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
All Rights Reserved. Copyright (C) 2015, Hitachi Solutions Create,Ltd. ご提供する『百科事典マイペディア』は2010年5月に編集・制作したものです

デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

高村光太郎 たかむら-こうたろう

1883-1956 明治-昭和時代の詩人,彫刻家。
明治16年3月13日生まれ。高村光雲の長男。ロダンの影響をうけ,明治39年から欧米に留学。帰国後彫刻,絵画の制作をおこない,またパンの会に参加して美術評論,詩を発表。昭和17年詩集「道程」で芸術院賞。戦後,連詩「暗愚小伝」で戦時中の自己責任を追及した。昭和31年4月2日死去。73歳。東京出身。東京美術学校(現東京芸大)卒。本名は光太郎(みつたろう)。詩集に「智恵子抄」,彫刻作品に「手」など。
【格言など】僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る(「道程」)

出典|講談社 この辞書の凡例を見る
(C)Kodansha 2015.
書籍版「講談社 日本人名大辞典」をベースに、項目の追加・修正を加えたデジタルコンテンツです。この内容は2015年9月に更新作業を行った時点での情報です。時間の経過に伴い内容が異なっている場合がございます。

朝日日本歴史人物事典の解説

高村光太郎

没年:昭和31.4.2(1956)
生年:明治16.3.13(1883)
大正昭和期の彫刻家,詩人。本名は光太郎。東京下谷生まれ。父光雲は木彫家として東京美術学校(東京芸大)教授,帝室技芸員となる。母はわか(通称とよ)。東京美術学校在学中に与謝野鉄幹の新詩社同人となり『明星』に短歌,詩などを寄稿。明治35(1902)年彫刻科卒業。研究科に進みロダンに傾倒。38年研究科修了,洋画科に再入学した。39年渡米。翌年ロンドンに移り,荻原守衛,バーナード・リーチらと親交を深める。41年パリに渡る。このときの体験はのちに「私はパリで大人になった」(「パリ」1950年刊『典型』所収)と歌われるほど全人格的な影響を与えた。42年帰国。「緑色の太陽」などの芸術評論を発表する一方,北原白秋らのパンの会に参加し詩作を開始。大正1(1912)年岸田劉生らとフュウザン会を結成。3年には詩集『道程』を刊行。「僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る」ではじまる「道程」や「根付の国」などを収める。同年,画家長沼智恵子と結婚。彫刻,詩,批評,翻訳などの分野に旺盛な活動を続ける。このころの彫刻作品に「裸婦座像」「手」「老人の首」「鯰」などがある。昭和13(1938)年発狂し入院していた智恵子が死亡。16年彼女への愛情をテーマとした『智恵子抄』を刊行した。17年文学報国会詩部会会長に就任。20年戦災により岩手県に疎開。27年帰京したが,31年結核により死去。西欧の文化,芸術への憧憬に根ざした大正期の活動から,戦時中の戦争協力的態度,戦後の戦争責任をめぐる自己反省へと,振幅の大きい一生だった。<参考文献>草野心平編『高村光太郎研究』

(菅原克也)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

江戸・東京人物辞典の解説

高村光太郎

1883〜1956(明治16年〜昭和31年)【彫刻家・詩人】長沼智恵子との運命的な出会い。 「智恵子抄」は静かな愛の絶唱。大正・昭和期の彫刻家・詩人。東京都出身。父光雲は著名な木彫家。東京美術学校彫刻科卒。1906年(明治39)渡米、パリに移りロダンに出会った。1909年帰国すると、彫刻、絵画、作詩、批評と多岐に活躍。長沼智恵子との出合いから死別までの過酷な精神生活は、一方で詩集「道程」「智恵子抄」など優れた作品を生んだ。その他代表的作品に詩集「典型」、翻訳「ロダンの言葉」、彫刻「手」「裸婦像」、論評「緑の太陽」などがある。

出典|財団法人まちみらい千代田
監修:江戸東京博物館 都市歴史研究室長 北原 進
(C) 財団法人まちみらい千代田
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

世界大百科事典 第2版の解説

たかむらこうたろう【高村光太郎】

1883‐1956(明治16‐昭和31)
詩人,彫刻家。木彫家光雲の長男として東京下谷に生まれた。東京美術学校彫刻科,同研究科卒。在学中から新詩社に属して《明星》に短歌を発表。1906年彫刻修業のため渡米,さらにロンドン,パリに遊学,09年帰国。愛する父光雲も含めた既成美術界の俗物性,派閥性に対する義憤,自我の自由な発露への渇望から,激烈な筆鋒をふるって個性の無限の権威を主張する。《緑色の太陽》(1910)は当時の代表的美術論である。精神的苦悩と彷徨の中で〈パンの会〉のデカダン的交友に身を投じ,盛んに詩作する。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
All Rights Reserved. Copyright (C) 2015, Hitachi Solutions Create,Ltd. 収録データは1998年10月に編集製作されたものです。それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。また、本文中の図・表・イラストはご提供しておりません。

大辞林 第三版の解説

たかむらこうたろう【高村光太郎】

1883~1956) 詩人・彫刻家。東京生まれ。光雲の子。彫刻を学びロダンの影響を受ける。また、早くから詩を発表。詩集「道程」「典型」「智恵子抄」、美術評論「美について」、訳書「ロダンの言葉」、彫刻に「手」など。

出典|三省堂
(C) Sanseido Co.,Ltd. 編者:松村明 編 発行者:株式会社 三省堂 ※ 書籍版『大辞林第三版』の図表・付録は収録させておりません。 ※ それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

高村光太郎
たかむらこうたろう

[生]1883.3.13. 東京
[没]1956.4.2. 東京
詩人,彫刻家。高村光雲の長男,工芸家高村豊周 (とよちか) の兄。 1897年東京美術学校に入学。また与謝野鉄幹主宰の新詩社へ入り『明星』に短歌,戯曲などを寄稿。 1906年渡米して彫刻を学び,翌年ロンドンへ渡って B.リーチ,荻原守衛と知合い,翌々年パリへ移住,ロダンに深く傾倒した。

本文は出典元の記述の一部を掲載しています。

出典|ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
Copyright (c) 2014 Britannica Japan Co., Ltd. All rights reserved.
それぞれの記述は執筆時点でのもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

高村光太郎
たかむらこうたろう
(1883―1956)

詩人、彫刻家。明治16年3月13日東京・下谷(したや)に生まれる。父は東京美術学校(現東京芸術大学)彫刻科教授高村光雲(こううん)。本名は光太郎(みつたろう)。のち自ら光太郎(こうたろう)と称した。初期の筆名に篁砕雨(たかむらさいう)を使ったこともある。幼少時父に木彫技法を学び、1902年(明治35)東京美術学校彫刻科を卒業。続いて西洋画科に進んだ。在学中の1900年に与謝野鉄幹(よさのてっかん)の新詩社に入り、またロダンを知って生命の躍動に力点を置く新しい芸術のありように目覚める。06年、彫刻修業のために渡米。ニューヨーク、さらにロンドン、パリと移って09年帰国した。この間、光太郎は西欧の文化・芸術の根底にある人間の根源性に触れ、それを自らの美の立場とするようになった。この立場は、けれども因襲的な日本美術界には容易に受け入れられず、11年に『光雲還暦記念胸像』を制作したほか彫刻はほとんど発表せず、「パンの会」に入ってその鬱情(うつじょう)を発散した。評論「緑色の太陽」や、詩「根付(ねつけ)の国」などには、その鬱情が挑戦的な形をとってほとばしっている。こうしたデカダンスは、やがて、いわゆる「自然の理法」の発見や、『青鞜(せいとう)』の表紙絵を描いていた長沼智恵子(ちえこ)の出現によって、生の肯定・賛美に向かって収束されてゆく。12年には岸田劉生(りゅうせい)、万鉄五郎(よろずてつごろう)らとフュウザン会を結成し、油絵を発表したが、翌年解散。詩集『道程』が自費出版されたのは14年(大正3)10月であるが、ここにはそうした自己定立の苦しい経緯が示されていて人を打つ。智恵子との生活が始まるのはこの年の暮れからである。
 以後、彫刻に専念する一方、『ロダンの言葉』(1916)、ホイットマンの『自選日記』(1921)、ベルハーレンの詩集『明るい時』(1921)などの翻訳を手がけ出版した。1921年11月『明星(みょうじょう)』の復刊によって、「雨にうたるるカテドラル」などで詩作を再開、続いて社会現実を鋭くえぐった「猛獣篇(へん)」とよばれる一連の詩を書き始める。これらは力感あふれる口語自由詩体の確かな完成を示している。
 昭和に入っての光太郎の生活は、精神を病んだ智恵子の看病と、日本文学報国会詩部会会長に象徴される私と公とに分断される。一方に『智恵子抄』(1941)が編まれ、一方に戦争詩集『大いなる日に』(1942)などが出版された。第二次世界大戦後、疎開先の岩手県太田村山口(現花巻(はなまき)市太田)で、連詩「暗愚小伝」が書かれたのも、こうした半生を反省してのことであった。これを収めた詩集『典型』(1950)と、十和田(とわだ)湖畔の裸婦立像『みちのく』(1952)が最後の記念となった。1952年(昭和27)日本芸術院第二部(文学部門)会員に推挙されたが、これを辞退した。昭和31年4月2日没。花巻市太田には高村光太郎記念館がある。[安藤靖彦]
 彼はロダンに学んだヨーロッパの近代造形思考と、幼少時から身につけた伝統的造形手法との相克を鋭く追求し、『造型美論』(1942)にみられるような、面・量塊・動勢・肉づけを四因子とする、本格的な彫刻理論を結実させた。そして、寡作ながら『手』『裸婦坐像(ざぞう)』『黒田清輝(せいき)像』など密度のある佳作を生み、さらに『鯰(なまず)』『桃(もも)』『蝉(せみ)』などの木彫にも新生面を開いている。[三木多聞]
『『高村光太郎全集』全18巻(1957~58・筑摩書房) ▽北川太一編『高村光太郎資料』全六集(1967~72・文治堂書店) ▽草野心平編『高村光太郎研究』(1959・筑摩書房) ▽伊藤信吉編『高村光太郎研究』(1966・思潮社)』

出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ) この辞書の凡例を見る
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの解説は執筆時点のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

世界大百科事典内の高村光太郎の言及

【印象主義】より

…明治末年になると,南薫造(みなみくんぞう)(1883‐1950),有島生馬,山下新太郎(1881‐1966)らの新帰朝者たちによってさらに刺激が与えられ,明るい色彩,大きな筆触を特色とする印象派風の外光表現は,日本洋画の確固とした一つの流れとなった。印象主義の運動および理論については,黒田,久米のほか,森鷗外,島村抱月らによって紹介され,1910年には,高村光太郎の〈緑色の太陽〉が《スバル》誌上に発表されて,日本における印象主義宣言といわれた。しかし,色彩の主観的表現を重視する高村の考え方は,表現主義的傾向が強く,印象派の導入がその後の前衛絵画運動と結びついていった日本の特殊性をよく示している。…

【画商】より

…東京美術俱楽部は東京のほか大阪,京都,名古屋,金沢に俱楽部をもち,入札競売のほか毎年〈五都展〉を開く。一方,洋画商の草分けは1910年,高村光太郎が開いた琅玕堂(ろうかんどう)で,大正初期に田中喜作の田中屋,川路柳虹の流逸荘,野島康三の兜屋がつづく。昭和初期に牧師出身の長谷川仁がはじめた日動画廊は,戦前は上海,戦後はパリをふくむ10都市以上に支店をもった。…

【典型】より

高村光太郎の詩集。1950年刊。…

【道程】より

高村光太郎の第1詩集。1914年(大正3)刊。…

【土門拳】より

…39年に同工房を退社し,〈国際文化振興会〉の嘱託として,大型カメラによる室生寺,文楽等の撮影を開始した(のち写真集として出版)。また43年には,初め雑誌《写真文化》に掲載されのちに写真集《風貌》(1953)に収録された,画家,作家等のポートレートによって〈第1回アルス写真文化賞〉を受賞,このとき高村光太郎は,土門の写真について〈土門拳の写真はぶきみである。土門拳のレンズは人や物を底まであばく〉と評している。…

【明治・大正時代美術】より

… 一方,明治美術会には長沼守敬,菊地鋳太郎(1859‐1944),大熊氏広が参加して彫塑部が置かれ,99年には岡倉らの去った東京美術学校に洋風彫塑の課程が置かれた。美術学校彫塑科の初代教授に長沼,まもなくそのあとを藤田文蔵が継ぎ,白井雨山(1864‐1928),渡辺長男(1876‐1952),武石弘三郎(1878‐1963),高村光太郎らが育つ。彼らは青年彫塑会(1897結成)に拠り,木彫家をもまじえて技術上の交流をはかった。…

※「高村光太郎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
All Rights Reserved. Copyright (C) 2015, Hitachi Solutions Create,Ltd. 収録データは1998年10月に編集製作されたものです。それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。また、本文中の図・表・イラストはご提供しておりません。

高村光太郎の関連キーワード加納鉄哉武井直也高村光太郎記念館建畠覚造吾妻兼治郎瀬戸剛戸田海笛橋本朝秀村山群鳳(初代)吉田芳明

今日のキーワード

大寒

二十四節気の一つ。元来,太陰太陽暦の 12月中 (12月後半) のことで,太陽の黄経が 300°に達した日 (太陽暦の1月 20日か 21日) から立春 (2月4日か5日) の前日までの約 15日間で...

続きを読む

コトバンク for iPhone

高村光太郎の関連情報