日本歴史地名大系 「新革屋町代地」の解説 新革屋町代地しんかわやちようだいち 東京都:千代田区旧神田区地区新革屋町代地[現在地名]千代田区内神田(うちかんだ)一―二丁目三河(みかわ)町一丁目の東に位置する代地で、鎌倉(かまくら)町北側の路地に沿った片側町。東は松下(まつした)町二丁目南側代地、北は皆川(みながわ)町一丁目。当町一帯は江戸時代前期以来の武家地で、寛文新板江戸絵図によると真田伊賀守が拝領している。なお寛永江戸図では「神の五兵衛」とみえる。元禄年間(一六八八―一七〇四)には太田摂津守の拝領屋敷。同一〇年になると当町一帯に永富(ながとみ)町が成立、享保年間(一七一六―三六)には新革屋町代地が成立した。 新革屋町代地しんかわやちようだいち 東京都:千代田区旧神田区地区新革屋町代地[現在地名]千代田区内神田(うちかんだ)三丁目元乗物(もとのりもの)町代地の北に位置し、竜閑(りゆうかん)橋から北に向かう道筋と三河(みかわ)町二丁目と同三丁目の境をなす東西の道筋の交点にある片側町。西は新銀(しんしろがね)町、北と東は横大工(よこだいく)町。江戸時代前期以来出羽秋田藩佐竹家上屋敷で、天和年間(一六八一―八四)に同屋敷が収公され永富町が成立している(沿革図書)。 新革屋町代地しんかわやちようだいち 東京都:千代田区旧神田区地区新革屋町代地[現在地名]千代田区内神田(うちかんだ)二丁目永富(ながとみ)町二丁目の北を東西に走る道筋に沿った片側町。東は元乗物(もとのりもの)町代地、西は永富町二丁目。当地は江戸時代前期以来の武家地で、元乗物町代地を含む地域は慶長九年(一六〇四)には出羽秋田藩佐竹家が上屋敷として拝領している。天和年間(一六八一―八四)には当町一帯に永富町が成立、享保年間(一七一六―三六)の絵図では新革屋町が成立している(沿革図書・江戸藩邸沿革事蹟など)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by