日出潟
ひいでがた
現市域の東、新潟交通電鉄線小中川駅南西にあり、面積八町五反余を数えた。安永二年(一七七三)に又新村の石川市左衛門が四町の新田開発を石瀬代官所に願出た。用悪水溜井としてこれを利用していた潟周辺一三ヵ村は反対、二町が許可された。同五年石瀬代官大屋四郎兵衛により検地が行われたという(皇国地誌)。市左衛門請新田は石瀬代官所・出雲崎代官所・脇野町代官所などの支配を経て幕末は高崎藩領であった。文政二年(一八一九)の脇野町代官所郡中高辻(北条家文書)・旧高旧領取調帳では一二石六斗、「皇国地誌」の反別は税地一町八反(改租新検反別一町九反)、湿地でその質は下等であり、水害が多いとある。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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