新潟県中部,三島(さんとう)郡の町。人口4907(2010)。東頸城(ひがしくびき)丘陵北部にあり,日本海に面する。丘陵崖下の浜辺は約6kmにわたって家並みの続く日本の代表的街村である。北国街道の宿場町で,佐渡金山の金の陸揚げ港としても栄え,近世には代官所も置かれた。西端の尼瀬地区では1888年日本石油の第1号井が掘削され,90年には日本最初の機械掘りが開始された。現在は資源が枯渇したが,石油産業発祥地として石油記念館が建てられている。出雲崎港は沿岸漁業の基地として栄え,県の基幹漁港となっている。近年ヒラメの養殖が行われている。東部の西越地区では酪農が盛ん。出雲崎は良寛の生誕地として知られ,良寛記念館がある。JR越後線が通り,92年に国道116号線の出雲崎バイパスが開通した。
執筆者:佐藤 裕治
《延喜式》の大家駅の所在地といわれる。1585年(天正13)豊臣秀吉が佐々成政を攻めたとき,上杉景勝が秀吉応援のため,兵糧米を2回越中境村まで送ったことは,港町として文書のうえでの初見である。上杉氏に代わった堀秀治はここに代官前羽庄左衛門をおき,佐渡への渡海は必ず出雲崎からと定めた。徳川幕府もまたここに天領6万石の代官所をおき,江戸へ輸送する佐渡産金を2艘の官船をもって出雲崎へ陸揚げさせ必ず北国街道から輸送させた。大坂,江戸へ廻漕する天領の城米も積み出した。1689年(元禄2)芭蕉が奥の細道行脚の際〈あら海や佐渡に横たふ天の河〉の名句をのこした。1868年(明治1)戊辰戦争に幕府の衝鋒隊長古屋作左衛門ら600名や水戸脱藩兵市川三左衛門の率いる柳組数百名のため,町は蹂躙(じゆうりん)された。
執筆者:渡辺 慶一
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新潟県中央部、三島郡(さんとうぐん)にある港町。日本海に臨み、1889年(明治22)町制施行。1904年(明治37)尼瀬(あまぜ)町、1957年(昭和32)西越(にしごし)村と合併。JR越後線(えちごせん)が通じ、国道116号、352号、402号が走る。古くは旧北陸道の宿駅で、近世は佐渡(さど)金山の輸送港として重きをなし、幕末には付近の天領を支配する代官所も置かれた。街は狭い海岸べりの丘陵麓(ろく)に並ぶ一本町で、長さ6キロメートル余にも及ぶ典型的街村をなす。西端の尼瀬は、西山油田の機械掘削の発祥地で、記念公園と出雲崎石油記念館がある。中央が金の陸揚げ港であった港町で、良寛和尚(りょうかんおしょう)の生誕地として知られ、良寛堂や良寛記念館がある。東端は沿岸漁業の漁師町であったが、いまは海水浴場に変わっている。内陸側の新町域は、土地改良の進んだ純農村である。面積44.38平方キロメートル、人口4113(2020)。
[山崎久雄]
『佐藤直太郎著『出雲崎編年史』上中下(1972・良寛記念館)』
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…その産出量はとくに江戸初期に多く,幕府の重要な財源であったので,大量の金銀輸送,幕府役人等の通行のため重視される街道となった。佐渡路には中山道追分宿から分かれて出雲崎(いずもざき)に出る北国街道,中山道高崎宿から分かれて寺泊(てらどまり)に出る三国街道,奥州道中白河宿で分かれて新潟に出る会津街道の3道があって,出雲崎,寺泊,新潟が渡海場に当てられていた。佐渡御金荷は小木港から出雲崎に海上輸送されたあと北国街道を陸送されたので,北国街道は江戸初期に合宿継や寄馬制など特別な継立体制が確立した。…
※「出雲崎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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