日本大百科全書(ニッポニカ) 「早稲田軍研事件」の意味・わかりやすい解説
早稲田軍研事件
わせだぐんけんじけん
大正後期の早稲田大学における学生たちの反軍活動事件。早大軍研事件ともいう。1923年(大正12)5月10日、早稲田大学において、陸海軍当局と学長の同意を得て、参謀本部の幹部たちと密接な青柳篤恒(あおやぎあつつね)教授を指導者とする学生たちの軍事研究団が、「衆に率先して軍事一般の考究」をすることを目的として発会式を行った。これに対し、大山郁夫(いくお)教授や佐野学(まなぶ)講師を顧問とする文化同盟(建設者同盟の学内団体)の会員を主とする学生たちが、反軍の立場から発会式を妨害し、12日には双方の支援学生の間に流血の大乱闘が起こった。その結果、軍事研究団も文化同盟も解散したが、この事件は、約1か月後の6月5日の第一次共産党事件の一端をなす早大研究室蹂躙(じゅうりん)事件(佐野学・猪俣津南雄(いのまたつなお)両講師らの研究室がある恩賜館が捜索された事件)の大きな伏線となった。なお早大では、1930年代に至るまで大小の反軍活動が展開された。
[佐藤能丸]
『早稲田大学大学史編集所編『稿本早稲田大学百年史 第三巻 上』(1980・早稲田大学出版部)』