日本大百科全書(ニッポニカ) 「軍事教練反対運動」の意味・わかりやすい解説
軍事教練反対運動
ぐんじきょうれんはんたいうんどう
大正後半期の早稲田(わせだ)軍研事件や小樽(おたる)高商軍教事件を中心とする学生の反軍運動。ワシントン海軍軍縮会議後、軍備縮小が進行し過剰将校の処遇問題が深刻となり、同時に軍閥を中心に軍隊の民衆化、国防の普遍化が唱えられだした。そうしたなかで、1923年(大正12)5月10日早稲田大学において、陸海軍当局と学長の同意を得て、青柳篤恒(あおやぎあつつね)教授を指導者とする学生たちの軍事研究団が「衆に率先して軍事一般の考究」をすることを目的として発会式を行った。これに対し、大山郁夫(いくお)教授や佐野学(まなぶ)講師を顧問とする文化同盟(建設者同盟の学内団体)の会員を主とする学生たちが反軍運動に立ち上がり、12日、両者の間に流血の大乱闘が起こった。その結果、軍事研究団も文化同盟も解散したが、政府の軍縮政策と学生に対する思想矯正政策は促進されていった。24年秋、中等学校以上の学生生徒に対して軍事教練を正課として施す案が陸軍省と文部省との間で具体化し、この案が報道されると、学生社会科学連合会を中心にして各大学で反対運動が起こった。11月12日には東京帝国大学に学生が集まり、全国学生軍事教育反対同盟が結成され、全国の大学で演説会などの活動が行われた。翌25年1月10日に文政審議会が軍事教育実施案を可決すると、24日を軍事教育反対デーとして、警視庁の禁止命令のなかで学生たちはデモを強行、警察隊と衝突し検束者を出した。同年4月13日「陸軍現役将校学校配属令」が公布され、政府は軍事教練の実施を強行した。しかし、10月15日に小樽高等商業学校で行われた軍事教練が、朝鮮人の暴動を想定していたことから、朝鮮人・学生・労働者らが反対運動を起こし(小樽高商軍教事件)、運動はふたたび活発化した。
[佐藤能丸]
『菊川忠雄著『学生社会運動史』(1931・中央公論社/増補改訂・1947・海口書店)』▽『早稲田大学大学史編集所編『稿本早稲田大学百年史 第3巻 上』(1980・早稲田大学出版部)』