出典 日外アソシエーツ「新訂 政治家人名事典 明治~昭和」(2003年刊)新訂 政治家人名事典 明治~昭和について 情報
大正・昭和期の政治学者,社会運動家,政治家,評論家 早稲田大学教授;労農党委員長;参院議員;衆院議員。
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社会運動家、政治学者。明治13年9月20日兵庫県生まれ。1905年(明治38)早稲田(わせだ)大学政治経済学科を卒業。1906年同校講師となり、1910年よりアメリカとドイツに留学、1914年(大正3)帰国して教授となる。国家主義的な色彩をもつデモクラシー論を携えて論壇に登場。1917年早稲田騒動に際し、同僚教授の解雇に反対して大学を辞し、大阪朝日新聞社に入社。翌年米騒動時の大阪朝日新聞筆禍事件(白虹(はっこう)筆禍事件)に際し、他の論説委員とともに辞職した。1919年長谷川如是閑(はせがわにょぜかん)らと雑誌『我等(われら)』を創刊し、1920年には早大に復職した。このころから国家主義的な色彩を払拭(ふっしょく)して、社会集団論を手掛りに社会主義に接近し、知識人の無産運動への参加協力の必要を唱えるようになる。そして1923年軍事研究団反対運動への参加を契機に、早大内で大学の自由と自治擁護運動の中心となった。1924年政治研究会創立委員となり、1926年労働農民党の中央執行委員長に就任、暗殺された山本宣治(やまもとせんじ)追悼演説のときの「われらの行くところは戦場であり墓場である」の文句は有名である。労働農民党の解散(1928)後、1929年(昭和4)11月新労農党を結成し翌年衆議院議員に当選したが、労農党は内部からの解消運動によって他党との合同を余儀なくされ、大山は政治的に孤立して、1932年渡米、16年間亡命生活を送る。1947年(昭和22)に帰国、早大に復帰して平和運動に参加し、1951年には国際スターリン賞を受賞した。1950年から参議院議員となり、1955年(昭和30)11月30日死去した。
[赤澤史朗]
『『大山郁夫全集』全5巻(1947~1949・中央公論社)』▽『大山記念事業会編『大山郁夫伝』全2巻(1956・中央公論社)』
政治家,政治学者。兵庫県の医家に生まれる。1905年早稲田大学卒業。欧米留学後,12年母校の教授となったが,17年大阪朝日新聞に入社,民本主義の論陣に加わる。米騒動をめぐる朝日の筆禍事件(白虹事件)を機に退社,長谷川如是閑と雑誌《我等》を創刊。20年早大に復帰し民人同盟会,文化会などの学生団体を指導。政治学者としては,社会学的実証研究たる《政治の社会的基礎》(1923)を刊行。24年政治研究会の創立に参画,無産政党運動に加わる。27年合法無産政党の最左翼たる労働農民党の委員長に就任,このため早大を追われた。同党の結社禁止後29年新労農党を創立,翌年東京から衆議院議員に当選。共産党からの合法政党解消の圧力に抵抗し活動をつづけたが,満州事変とともに運動の自由を失い32年アメリカに亡命。47年帰国,早大に復帰し平和運動に専念。50年参議院議員に当選,革新勢力の長老として敬重された。翌年スターリン国際平和賞を受ける。全集5巻(1947-49)がある。
執筆者:松尾 尊兊
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1880.9.20~1955.11.30
大正・昭和期の社会運動家・政治家。兵庫県出身。東京専門学校卒。欧米に留学。1914年(大正3)早稲田大学教授となり政治学を講じる。17年辞職し大阪朝日新聞社に入社するが,翌年白虹(はっこう)事件で退社。吉野作造らと黎明会を結成,雑誌「我等」を創刊して民本主義を唱えた。26年(昭和元)労働農民党の委員長となり,28年第1回普通選挙に出馬するが,未曾有の弾圧にあい落選。翌年新労農党を発足させ,30年には代議士に当選した。以後共産党との激しい確執,ファッショ化の嵐のなかで32年アメリカに亡命。第2次大戦後47年に帰国,50年に参議院議員。平和運動に献身した。
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…結党後,左派の門戸開放運動が起こり党内でも日農がこれに同調すると,総同盟など右派は10月党から脱退するにいたった。残留派は左派に門戸を開放,12月第1回党大会で大山郁夫を委員長に選んで陣容を立て直し,左翼政党として再出発した。以後同党は日本共産党の事実上の指導下にある合法無産政党として,また左翼社会民主主義者と共産主義者の統一戦線的政党として,弾圧にさらされながら評議会,日農などと一体となって議会解散請願運動,対華非干渉運動,金融恐慌下の要求闘争,5法律制定要求運動,27年の府県会議員選挙,28年総選挙などに取り組み,無産政党のなかでもっとも有力な党としてめざましい活動を展開した。…
…大正から昭和初期の高級評論雑誌。1918年の〈白虹事件〉で大阪朝日新聞社を退いた長谷川如是閑が1919年2月,大山郁夫,井口孝親らと我等社をつくって創刊した。丸山幹治,伊豆富人,大庭柯公らが参加した。…
※「大山郁夫」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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