軍令統轄機関。日本では西南戦争直後の1878年陸軍省の別局であった参謀局が廃止され,陸軍省から独立した参謀本部が設置された。この軍令機関の軍政からの分離の背景としては,(1)明治初年からの事変,戦乱などの経験から参謀機能を専門にする独立機関の必要が痛感されたこと,(2)立憲政体樹立にさいし,議会勢力から軍隊統帥権を政治的に防御しようとしたことなどがあげられる。なお,参謀本部の独立は1873年ドイツから帰国した桂太郎の建議を山県有朋が採用したとされ,74年6月制定の陸軍参謀局条例は桂の起草と思われる。旧制度の参謀局長が軍政統轄機関たる陸軍卿(陸軍大臣)に隷属していたのに対し,新制度の参謀本部長は天皇に直隷する軍令機関となり,陸軍卿と並立するようになった。すなわち作戦用兵等は政府を経由しないで決定・施行できる制度となったのである。軍令機関の独立は当初陸軍だけであったが,1886年海軍も独立させて海軍軍令部(軍令部)となった。参謀本部長には皇族を任じ,次長に陸海軍将官をおいた。89年には参謀本部条例,海軍参謀部条例によってこれまで一体であった陸海軍軍令機関がそれぞれ独立し,参謀本部長は参謀総長となった。1908年参謀総長は参謀の職にある陸軍将校の統督・教育に任じ,陸軍大学校,陸地測量部をも管轄することになった。37年,日中戦争への対応のため大本営令発布にともない(大本営),参謀本部の大部分が大本営陸軍部となった。敗戦による陸海軍の解体にともない,45年10月参謀本部も廃止された。
参謀本部が軍政統轄機関たる陸軍卿ならびに政府から独立したのは,当初主として参謀事務執行の機能的要請にもとづくものであり,政治的要請のほうはほとんど顕在化しなかった。というのは政府も参謀本部も同質の勢力(藩閥勢力)によって支配されていたからである。ところが日露戦争後になると政党勢力(議会勢力)の台頭によって政府が政党の支配下に置かれはじめるにおよんで,参謀本部を中心とする軍部と政府とは異質の勢力によって支配されることになり,国務と統帥,政府と統帥部との対立は政治的対立関係に移行した。この時点で,この制度創設の目的の一つであった政治的役割が現実に作動しはじめたといってよい。政党などを中心とする第1次護憲運動後の1913年,〈陸軍省参謀本部教育総監部関係業務担任規定〉による参謀本部が強化されたことはその一つのあらわれである。
こうした参謀本部を中心とする軍部の台頭と制度上の強化は,日露戦争勝利による植民地拡大,列強との対抗のため加速され,政府の政策と一致しない動き(二重外交)を引き起こし,国内においては〈二重政府〉〈国家内の国家〉と評される状態が現出した。1920年,原敬内閣の高橋是清蔵相が〈参謀本部廃止論〉を唱えたり,世論が〈軍国主義の源〉と非難したのはこのような状況を踏まえてである。昭和期に入ると,国外における植民地・従属国の民族運動の高揚,国内における経済恐慌に対する政党勢力の無能という要因によって,再び参謀本部を中心とする軍部の台頭が起こり,やがて政治の実権を掌握していく。しかし第2次大戦時の戦争指導においても,この軍政と軍令の二元性の矛盾は解消されず,1944年東条英機首相が陸相と参謀総長を兼任するというようなことも行われた。
もともと参謀本部general staffの概念は,ナポレオン戦争後に成立したもので,平時に戦争計画を作成し有効な情報収集(軍用地図の作成を含む)を任務とした。とりわけプロイセンでは1821年に皇帝直属の参謀本部が確立され,19世紀後半にモルトケ参謀総長(在任1857-88)が普仏戦争などで戦果をあげて以来,イタリア,オーストリア・ハンガリー,ロシアがこれにならい,日本もこの時期に導入している。フランスでは1880年に,またイギリス,アメリカでは20世紀初頭に参謀本部制を採用した。
近代国家においては政治と軍事の機能的分化が必然の趨勢となるが,それによる軍事機能・機構の自律性の解放の結果,純軍事的機能を担う統帥部はともすると自己の限界をこえてひとり歩きしていきがちである。第2次大戦までの日本,および第1次大戦までのドイツの場合は政府から統帥部が独立することによって,統帥部を政治的にコントロールすることが困難になった。イギリス,アメリカの場合は政府(大統領),議会の下位に統帥部をおき,政治的にコントロール(シビリアン・コントロール)できる制度にあった。
→統帥権 →陸軍
執筆者:雨宮 昭一
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軍の統帥における最高補佐機関。作戦、用兵などの企画に加わり指揮官を補佐する参謀制度はプロイセンに起源をもつ。プロイセンでは、1809年に陸軍省が創設され、参謀本部が置かれた。1883年には、陸軍参謀総長に国王に対する直接上奏権が与えられた。西欧諸国もしだいにこの参謀制度を採用し始め、現在では多くの国々で陸海空三軍に参謀本部が置かれ、三軍の統合運用のために統合参謀機関が設けられている。たとえばアメリカ統合参謀本部、イギリス国防参謀本部など。
日本では1871年(明治4)に兵部省内別局として参謀局が置かれたのが最初である。73年に陸軍省が設置され、参謀局は省内第六局となった。同局は74年に廃止され、陸軍省外局として参謀局が置かれた。78年、参謀局廃止、新たに陸軍省から独立し天皇に直隷して陸軍軍令をつかさどる参謀本部が設けられ、86年には参謀本部の下に陸軍部と海軍部が所属する両軍統一の軍令統轄機関となった。
参謀本部は陸海軍軍計画を行うものとされ、参謀本部長には皇族が任命された。1888年に陸・海軍部がそれぞれ陸軍参謀本部、海軍参謀本部となり、参謀本部長は参軍となった。さらに89年に海軍大臣の下に海軍参謀本部が独立設置され、陸軍参謀本部は参謀本部と改称され陸軍軍令の専掌機関となった。海軍参謀本部は、のちに海軍軍令部から軍令部に改組された。93年の参謀総長の職掌改定により、戦時の軍令は大本営の所掌となった。大本営は日清(にっしん)・日露戦争および支那(しな)事変から太平洋戦争にかけて設けられた。参謀総長の任務は「天皇ニ直隷シ帷幄(いあく)ノ軍務ニ参画シ国防及用兵ニ関スル計画ヲ掌(つかさど)リ参謀本部ヲ統轄ス」るものとされた(明治41年、参謀本部条例)。参謀本部は、1945年に廃止。
[亀野邁夫]
『大江志乃夫著『日本の参謀本部』(岩波新書)』
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陸軍の軍令を管掌した機関。1878年(明治11)12月5日に陸軍省外局であった参謀局を廃止して設置。78年7月,6年余のドイツ留学から帰った桂太郎が同年10月8日,陸軍参謀局拡張の議を太政官に上申し,軍令機関の独立が認められた。これにより参謀本部長(のち参謀総長)の地位は天皇直隷となった。参謀総長の任用資格は陸軍大・中将。軍令の法的根拠は大日本帝国憲法第11条の統帥大権におかれ,これを補佐・管掌することとされた。軍令については,議会の予算審議権や国務大臣の輔弼(ほひつ)が及ばないものと解釈されたため(統帥権の独立),国防計画・作戦計画や戦時の兵力量決定などが国政から遊離する事態がおこった。1945年(昭和20)10月15日廃止。
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…この影響を受けつつドイツ伝統の幕僚組織を完成させたのはH.モルトケ(1800‐91)であった。彼はG.J.D.vonシャルンホルストの業績を受け継ぎ,鉄道の発展を予見した組織を整備し,有能な幕僚を養成して有名なドイツ参謀本部を創設した。ドイツ参謀本部の特色の一つは,最高指揮官に完全に中央における戦争指導を可能にさせたことである。…
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