早竹虎吉(読み)はやたけ・とらきち

朝日日本歴史人物事典 「早竹虎吉」の解説

早竹虎吉(初代)

没年:1868.2(1868.2)
生年:生年不詳
幕末軽業師京都二条新地に住む大吉の子で,父と共に寺町誓願寺の境内で軽業渡世。天保14(1843)年大坂へ下って大入りをとる。江戸初上りの安政4(1857)年,歌舞伎仕立ての衣裳を着け,独楽手品を取り入れた大仕掛けな舞台を見せて話題を呼んだ。慶応3(1867)年約30名の一座を連れて渡米。サンフランシスコのメトロポリタン劇場を振り出しにサクラメントほかで興行,翌1868年1月24日からニューヨークの大劇場アカデミー・オブ・ミュージックの舞台へ立ったが,数日後に病で倒れた。明治7(1874)年弟が2代目を継ぎ,兄に劣らぬ評判を得た。

(倉田喜弘)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「早竹虎吉」の解説

早竹虎吉 はやたけ-とらきち

?-1868 幕末の芸人
京都や大坂で興行し,安政4年(1857)江戸両国で独楽(こま)や手品などをとりいれた芸を演じる。のち30人の一座をひきいてアメリカにわたり,慶応3年サンフランシスコなどで日本奇術を披露した。慶応4年1月死去。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の早竹虎吉の言及

【足芸】より

…早くに海外を巡演した者も多く,たとえば江戸新吉原に住む浜碇定吉は,1867年(慶応3)にアメリカを経由してパリ万国博覧会へ出演。一方京都の早竹虎吉は,1866年に渡米して68年に没。その弟が2世虎吉を継ぎ,74年に東京で大評判をとった。…

【見世物】より

…また福招きの人形として知られる〈叶(かのう)福助〉の流行にのって,文化1年(1804)春には,生福助の見世物が最も人気があった。幕末には,竹沢藤治の曲独楽や早竹虎吉の軽業の類が,歌舞伎の所作事の振(ふり)を取り入れて〈高小屋物〉と称して,見世物の第一等の地位を占めた。 明治時代になると,力持,女角力,足芸,猿芝居,ろくろ首,化物屋敷などの従来のもののほかに,西洋から輸入した玉乗り,曲馬,魔術などが加わった。…

※「早竹虎吉」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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