ブハラ・ハーン国(読み)ブハラハーンこく

百科事典マイペディア 「ブハラ・ハーン国」の意味・わかりやすい解説

ブハラ・ハーン国【ブハラハーンこく】

西トルキスタンブハラを都としてウズベク族が建てたスンナ派イスラム国家(1500年―1868年存続)。ティムール朝衰退に乗じ1500年ウズベク族のシャイバーニーがブハラにより王朝を建てたが,アッバース朝に圧迫され崩壊した。別系統のジャーン朝アストラハン朝ともいう)は同じくブハラによっていたが,1599年以後隆盛となり,17世紀後半アブドゥル・アジーズの治世下に最盛期を迎え,ロシア東トルキスタンとの貿易で利益を収めた。その後,ペルシアに攻められ1785年滅亡。マンギット朝(1753年―1920年)がこれに代わった。しかし,ロシアにおされ,1868年その保護国となり,1920年ブハラ人民ソビエト共和国の成立によって滅び,1924年ウズベク共和国となった。この間,反ソビエトのバスマチ運動が展開された。
→関連項目ウズベキスタンコーカンドサマルカンドタジキスタンタジク[人]

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

改訂新版 世界大百科事典 「ブハラ・ハーン国」の意味・わかりやすい解説

ブハラ・ハーン国 (ブハラハーンこく)

ウズベク族が中央アジアに建設したスンナ派イスラム国家。シャイバーニー朝(1500-99),ジャーンJān朝(アストラハン朝ともいう。1599-1785),マンギットMangit朝(1753-1920。ただし1740年にはアストラハン朝から実権を奪っていた)は,いずれも主としてブハラを首都としたため,合わせてブハラ・ハーンBukhārā Khan国と呼ぶ。16世紀後半のように,国力が充実して産業の栄えた時期もあったが,イランに成立したシーア派サファビー朝によって,イスラムの中心地である西アジアから切り離された形となり,近隣のカザフ族ヒバ・ハーン国ホーカンド・ハーン国等との争いや,国内の封建的細分化に悩まされて,国勢は概して振るわなかった。1868年にロシアの保護国となり,1920年ブハラ人民ソビエト共和国の成立をもって滅びた。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内のブハラ・ハーン国の言及

【ウズベキスタン】より

ヒバ・ハーン国では18年トルクメンのジュナイド・ハーンが独裁をしき,ウズベク農民を抑圧していたが,革命によって20年4月ホラズム人民ソビエト共和国が成立,23年10月に社会主義共和国となった。ブハラ・ハーン国でも20年夏の革命によって青年ブハラ党が政権をとり,10月にブハラ人民ソビエト共和国,24年9月ブハラ・ソビエト社会主義共和国となった。そして同年10月,トルキスタン,ホラズム,ブハラ3共和国の領域の民族的境界画定によってトルクメン・ソビエト社会主義共和国とともにウズベク・ソビエト社会主義共和国が成立する。…

【ウズベク族】より

…彼らは,アブー・アルハイルの孫シャイバーニー・ハーンのときに,マー・ワラー・アンナフルやホラーサーンの定住地域に侵攻し,1507年にはティムール朝を滅ぼす。これがシャイバーニー朝で,その後,ジャーン朝(アストラハン朝),マンギット朝と,ブハラを中心とした王朝が続いたため,これらを総称してブハラ・ハーン国と呼ぶ。また別の一派は,16世紀初頭ホラズムにヒバ・ハーン国を建設し,18世紀初頭には,フェルガナを中心にホーカンド・ハーン国が建国された。…

【タジキスタン】より

…タジク人には,ムスリム(イスラム教徒)が多い。
[歴史]
 タジキスタンは1929年までウズベク(現,ウズベキスタン)共和国の一部であったので,概説的な叙述の重複を避けるため,ここでは共和国の領域の大部分を占めていたブハラ・ハーン国を中心として述べることとし,それ以前については〈タジク族〉,革命前後については〈ウズベキスタン〉の項目を参照されたい。 1865年,南下してきたロシア軍は,中央アジアの中心都市タシケントを占領,66年タジキスタン北部のホジェント(のちレニナバード,現フジャンド)とウラ・チュベをおとした。…

※「ブハラ・ハーン国」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android