日本歴史地名大系 「明善堂跡」の解説 明善堂跡めいぜんどうあと 福岡県:久留米市久留米城下城内明善堂跡[現在地名]久留米市城南町久留米城下に置かれた久留米藩藩校。県立明善高校の前身。天明五年(一七八五)二月城下両替(りようがえ)町井筒屋恵助引揚屋敷に八代藩主有馬頼貴が講席(講談所)を創設したのが始まり(「御書出之類」藩法集)。講師は広津善蔵・徳永円次で、松下勇馬以下六名を会談員と称し、杉山正仲を幹事とする(久留米市誌)。同七年五月には狩塚(かりづか)門内に移し、修道館と称した(「筑後修道館記」同書)。寛政七年(一七九五)一月の火災で焼失(米府年表)。翌年御原(みはら)郡井上(いのうえ)村(現小郡市)樋口簡次(甚蔵)の三〇〇両の献金を受け、大手門内の戸田勘解由跡屋敷に再興され、明善堂と改称された(同書)。明善の名は「大学」から採られたもの。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報