朝日日本歴史人物事典 「樺島石梁」の解説
樺島石梁
生年:宝暦4.10.7(1754.11.20)
江戸中期から後期にかけての儒学者。名は公礼,字は世儀,通称勇七,石梁と号す。筑後(福岡県)久留米生まれ。天明期に江戸に遊学し細井平洲に従う。藩主の信を得て小姓となり,また藩校明善堂設置に携わって教授となる。のち使番から側物頭に進み采禄130石。その40年におよぶ藩仕生活の大半を江戸で過ごした。平洲門にちなんで尾張の明倫堂や江戸の嚶鳴館の儒者とも親しい。交友は広く,北部九州からきた学者の江戸における案内役も果たす。経世実学と文事の均衡のとれた儒者で,久留米の名大夫有馬息焉や多くの漢詩人を門下に輩出するなど,その江戸,久留米両地における隠然たる影響は無視できない。和文も堪能である。<参考文献>樺島石梁先生顕彰会編『樺島石梁遺文』
(宮崎修多)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報